彼の後ろに道ができた 鬼才・マルチェロ・ガンディーニの仕事
音楽家の家に生を受ける
すでに報じられたように、2024年3月13日、イタリアのカーデザイナー、マルチェロ・ガンディーニ氏が逝去した。享年85だった。 【写真】全21枚! マルチェロ・ガンディーニの作品をもっとたくさん見る 自動車の歩みのなかでは、数多くの辣腕(らつわん)デザイナーたちが作品を残してきたが、そのなかにあって、ガンディーニはまさに鬼才と呼ぶにふさわしい偉大な存在であった。スタイリングの優美さを描く敏腕デザイナーは他に存在しても、ことアバンギャルドさやアグレッシブさ、革新性では、他の追随を許すことはなかった。その象徴的な存在が「ミウラ」であり「カウンタック」であり、「ストラトス」であろう。 1938年8月26日、マルチェロ・ガンディーニは音楽家の両親のもとでトリノにて誕生した。幼いころから音楽を親しみ、ピアノを友として成長していった。そのまま成長すれば親たちと同じ道を歩んだはずだが、幼き日に買い与えられた機械工作キットに魅了されたことが転機となって、メカニズムへの関心を抱くようになった。やがてフィアットで「ヌオーヴァ500」や「600」など多くの秀作車を送り出したダンテ・ジアコーサの著書を読みあさるなどして、独学でクルマの知識を吸収していった。 高校卒業後はフリーランスデザイナーの道を選んでいる。活動の範囲は、機械製品の組み立て図や広告ポスター、照明やインテリア、ナイトクラブのしつらえなど多方面におよんだが、1959年に手がけたOSCAのレーシングボディー製作が転機となって、クルマへの関心が高まっていった。
1965年にベルトーネに招かれる
1963年に友人の紹介でカロッツェリア・ベルトーネの門をたたいている。だが、このときは採用には至らなかったものの、2年後の1965年秋、ヌッチオ・ベルトーネ社長から声がかかった。採用までに2年の時を必要とした理由は、1963年当時はジョルジェット・ジウジアーロがチーフデザイナーの地位に君臨しており、ヌッチオは社内で両雄が並び立つことは不可能だと判断したからといわれている。 1965年トリノショーの前日、ジウジアーロがベルトーネを辞してカロッツェリア・ギアに転籍すると、ガンディーニは彼の後任として招かれた。だが、このあたりの経緯については説明が必要だ。ヌッチオはガンディーニの秘めた才能を高く買ったとはいえ、同じ27歳とはいえ数々の経験を積んだジウジアーロと同様の扱いで、新人に全権を委ねることには慎重であった。 まず、ミケロッティからベルトーネに移籍したばかりのパオロ・マルティン(1943年生)との共同作業体制を敷いた。これによってジウジアーロ体制からの円滑な移行を図ろうとしたのである。ミウラのスタイリングについては、しばしばジウジアーロが手を下したのではないか、あるいは彼が書き残した試案のスケッチがヒントになったのではとうわさされるゆえんがここにある。また、ヌッチオは1966年ジュネーブでの反響を見て、ガンディーニを正式にチーフの座に据えようと考えたのではとの臆測もある。マルティンはといえば、入社から1年でピニンファリーナに移籍して、チーフの地位についた。 話を1965年秋に戻すと、ガンディーニがベルトーネに入社したわずか4カ月後には、ジュネーブショーの開催が迫っていた。これに向けて彼は、短期間のうちにランボルギーニP400ミウラに「ジャガーFT」、「ポルシェ911」ベースの「スパイダー」の3台を完成させている。ジャガーFTとポルシェ911スパイダーは、ともに顧客からの注文を受けての製作であった。