映画『オッペンハイマー』は、日本人に何を問いかけるのか?
この原稿を書いているさなかにも、プーチンは、核兵器を使う準備はできているかという国営メディアの“やらせ質問”に、「用意ができている」と聞こえよがしに語った。「兵器は使うためにある」とも。どんな科学者にも、ウクライナの人びとの命を奪い、生活を破壊し、あまつさえ世界をも脅迫する現在のプーチンを、リアリティをもって想像することなどできなかったのではないか。それは、オッペンハイマーの想像力のはるか先にあったのではないか。 そうしたことを「考えさせられる」映画であり、そこから、いま、同じように科学者が「歴史を変えてしまう」かもしれないような事態が、人工知能(AI)や量子コンピューティングなどの研究・開発をめぐって、われわれの世界で現実に進行していることも、あらためて想起させられる。「こんなことになるんだったら、自分は研究や開発などしなかったのに」と科学者に後悔させてしまう事態が、のちの世に出現しはしまいか、と。 「そんなことを言い始めたら、どんな発明も研究もできなくなる」というのは、よくある反論だ。「自動車だって、人を殺傷することはできる」といった類の。しかし、結果的に多くの人の命を“意図的に奪う”ことにつながるかもしれない研究・開発を、同列には論じられない。たとえ人間の想像力や予見力に限界はあっても(あるからこそ)、「人間によって、どんな非人道的な使われ方をする可能性があるのか」は、徹底的に考え尽くさなければならない。たとえばドローンなど自律性の高いvehicleとAIを組み合わせたLAWS(Lethal Autonomous Weapons Systems=自律型致死兵器システム)を、このまま開発し続けていいのかという問いも生む。LAWSについてはジュネーブの国連欧州本部で議論が重ねられているが、自律兵器の暴走、裏を返せば「それを使う人間の暴走」を効果的に抑えられるような方策には、まったく至っていない。 想像力の限界──これは、研究者・科学者ばかりでなく、政治家にも、そしてわれわれみんなにも、鋭く突きつけられる問いである。 ピュリツァー賞を受賞した原作をもとに、真摯に作られた映画であることは間違いない。ひとりひとりが「考えるため」に観るなら、その価値のある映画だと思う。(3月18日記)