映画「フェラーリ」 〝F1の帝王〟カーレースを軸にした一筋縄ではいかない人間ドラマ 無秩序で矛盾にまみれ…死の匂いに満ちた作品
【渡邉寧久の得するエンタメ見聞録】 何気ない朝の目覚めの風景。とはいえ、ハッピーな空気は伝わってこない。複雑で不穏な物語への、それが導入だった。 7月5日公開の映画「フェラーリ」(マイケル・マン監督)。世界中にその名をとどろかすイタリアのモータースポーツ&カルチャーを象徴する企業、フェラーリ。F1の帝王と呼ばれた創業者であるエンツォ・フェラーリの、59歳当時の1年を映画は描いている。 フェラーリ社創業から10年目。世界的な巨大企業になる前の黎明期。会社の経営状態は身売りを含めたテコ入れが必要なほど逼迫(ひっぱく)し、長男を難病で亡くした直後で、家庭は冷え切り、一方でもう一つの家庭と行き来するという、シンプルではない二重生活を送っていた。 映画の登場人物、つまりフェラーリ(アダム・ドライバー)並びにその周囲の人物に、幸せいっぱいの笑顔は、たった1人の子供を除くと、見つけることが困難である。特にフェラーリの人生は死と背中合わせ、死から逃れられない運命に支配されているかのようだ。 そんな折、社運をかけて挑む、イタリア全土1000マイルを縦断する公道レース「ミッレミリア」。5人のレーサーのうち、最年長のレーサーが優勝を手に入れるが、その最中、11人の死者を出す事故を起こしてしまう。 街中の広告の細部に至るまで再現した当時のイタリアの風景、現在のような電子制御されたメカニックのない時代のレース環境と目をそむけたくなる大惨事、フェラーリと妻との不和と周囲の面々とのヒリヒリする人間関係、カリスマ性や狂気をまとったフェラーリの複雑な人物像を演じ切ったアダム・ドライバーの一挙一動。それらががっちりとかみ合い、激しく美しい映像を編み上げた。 カリスマであるフェラーリを手放しで礼賛せず、レースを描いた映画にありがちな、スカッとさわやかなカタルシスもない。人生をなぞる伝記映画とも違う。 言ってみれば、カーレースを主軸にした、一筋縄ではいかない人間ドラマ。無秩序で、矛盾にまみれ、アンバランスで、意地悪で…、魅惑的なフェラーリに酔える、死の匂いに満ちた作品だ。 (演芸評論家・エンタメライター)
■渡邉寧久(わたなべ・ねいきゅう) 新聞記者、民放ウェブサイト芸能デスクを経て演芸評論家・エンタメライターに。文化庁芸術選奨、浅草芸能大賞などの選考委員を歴任。東京都台東区主催「江戸まちたいとう芸楽祭」(ビートたけし名誉顧問)の委員長を務める。