ユーロ2024開催地で50年前に見たW杯 トータルフットボールを封じたドイツのサッカーは強く魅力的だった
【世界のサッカーをリードしていたドイツ】 西ドイツW杯はフランツ・ベッケンバウアー(西ドイツ)とヨハン・クライフ(オランダ)の大会だった。 「トータルフットボール」と称されたオランダの近未来的なサッカーが旋風を巻き起こした。FWやDFといったポジションなどまるで存在しないかのように、選手たちが次々と湧き出てくるダイナミックな攻撃サッカーだった。 それは当時としてはあまりにも革新的であり、そのメカニズムを完全に理解できた人などほとんどいなかったに違いない。まして、極東のサッカー後進国からW杯見物にやって来た日本人青年にとっては、ただただ驚きだけだった。 だが、決勝戦では西ドイツのベルティ・フォクツがクライフを徹底的にマンマークして封じ込め、西ドイツが逆転勝ち。1954年スイスW杯以来20年ぶり2度目の優勝を飾った。 その舞台となったのはミュンヘンのオリンピアシュタディオンであり、当時も西ドイツ代表の先発11人中ほぼ半数がバイエルン所属だったから、「ホームだから勝てた」と言われていた。 オランダの超革新的なフットボールに話題を攫(さら)われたものの、西ドイツが当時の世界のサッカーをリードしていたことは間違いない。 ドイツと言うと、ラテン系の国と比べてフィジカル能力が高く、「武骨な」印象が強い。だが、いつの時代にもひとりかふたりは小柄でテクニカルな選手を擁している。たとえば、Jリーグの初期に活躍したピエール・リトバルスキーとか、1990年代の低迷期に活躍したトーマス・ヘスラーといった選手は、ドイツ代表に独特のアクセントを加えていたものだ。 そんなドイツには、多数のテクニシャンが揃う特別な時代が訪れることがある。1970年代前半は、まさにそんな時代だった。
【テクニックのある選手が集まった魅力的なサッカー】 代表格が1974年西ドイツW杯では最終ラインからチームを操るリベロとしてプレーした主将のフランツ・ベッケンバウア-であり、また、左足を使った短いパスを交換することによって中盤を組み立てたヴォルフガング・オベラートだった。 そして、西ドイツW杯ではほとんど出番が与えられなかったが、1972年の欧州選手権(現在のEURO)で大活躍したギュンター・ネッツァーもいた。オベラートが短いパスをつないで組み立てるのに対して、ネッツァーはロングレンジのパスを駆使してチームをダイナミックに動かした。 こうした主役級だけでなく、その周囲にも何人ものテクニシャンがいた。決勝ではクライフを徹底したマークで消してしまったフォクツにしても、本来は非常にテクニカルで攻撃センスあふれるDFだった。 彼らはいずれも1940年代半ばに生まれ、第2次世界大戦で敗れたドイツで育った。戦後の瓦礫のなかでボールを追って遊ぶなかで、テクニックを身に付け、その後、西ドイツ政府がスポーツ振興政策を充実させたことによって、適切な指導を受けて育った世代だ。 こうしてテクニックのある選手が次々と現われると、もともとドイツが持っているフィジカルの強さや組織力と融合して、あの非常に魅力的で強いチームが完成したのだろう。 たとえば、当時のイングランドはロングボールの蹴り合いと肉弾戦が繰り広げられるオールド・スタイルのままであり、また、イングランドのサッカー場は古色蒼然としたものばかり(それも魅力のひとつではあったが)。 その点、正確でスピーディーなパスを駆使してゲームを組み立てる西ドイツは、とても近代的な印象だったし、W杯を前に改修、新設された各地のスタジアムもとてもモダンに見えた。