「ドイツ帝国」の道と平和の少女像【特派員コラム】
都市全体が「記憶の空間」と呼ばれるドイツのベルリンには、ドイツ帝国時代が垣間見られる空間もある。ベルリンのミッテ区のベディング地区にある「アフリカ地区」だ。そこには、植民地の人たちを「人間博物館」に展示しようという企画を作りだしたドイツ帝国の記憶が埋め込まれていた。19世紀にドイツ領東アフリカ(タンザニア・ブルンジ・ルワンダなど)の植民地管理を総括したカール・ペータースによる苛酷な統治によって「血の手」「絞首刑執行人ペータース」と呼ばれたが、ドイツでは帝国のために献身した人物として評価された。彼の名前にちなんだ通りの名前である「ペータース通り」(Petersalle)がアフリカ地区を通っていた。 アフリカ諸国とドイツ植民地の「開拓英雄」たちの名前は、アフリカ地区のいたる所で通りの名称として名が刻まれている。ここに根を下ろしたアフリカ系移民たちは、平穏を甘受すべき空間の前で、常に「加害者の歴史」に直面することになる。 ところが、8月23日にペータース通りの前で小さな祭りが開かれた。カール・ペータースの名を消し、2つの新たな表示板を取り付けるためだった。ドイツの植民地支配に対抗したタンザニア人の抵抗運動の名前から取った「マジマジアルレ」(Maji-Maji-Alle)と、同じくドイツの植民地だったナミビアのアパルトヘイト(「分離」を意味する人種差別政策)に反対した女性活動家のアンナ・ムングンダの名前からとった表示板だ。脱植民主義の活動家たちの長きにわたる要求とミッテ区議会の決定、法廷闘争の末に勝ち取った成果でもあった。 植民地主義の歴史を示す通りの名称は、次々と新たな名前に置き換えられてきた。ある活動家はドイツメディアのインタビューで「アフリカ地区は、今や反植民地の空間に変わった」と自負を示した。しかし、72歳のタンザニア出身の活動家のムンヤカ・スルル・ムボロさんは、このようになるまで「40年の時間がかかった」と語った。 都市は変わっているのだろうか。カール・ペータースが消えたこの町角から約3キロメートル離れたところには、日本軍「慰安婦」被害を象徴する平和の少女像が撤去の危機に直面している。そこでは「アリ」という名で呼ばれる少女像は、4年前にミッテ区の公共の敷地に建てられ、日本政府の圧力にもかかわらずその場所を守っていたが、ミッテ区庁は「これ以上の期間延長は不可」として、少女像を設置した市民団体に9月末までに撤去するよう要求している。この決定を撤回するよう請願したミッテ区民の数は、いまや3000人を超えた。あるアフリカ系男性は少女像の前で、旧ドイツ軍による性的暴行を受けて妊娠した自分の祖母の話をしたという。彼はアリが自分の妹のように感じられると語った。少女像を建てたコリア協議会は、昨年もベルリンの地域社会の学校や青少年団体で子どもたちに会い、日本を越えてドイツやルワンダなどで発生した植民地時代の戦時性暴力問題を話した。 この場所で少女像が単なる韓日関係や歴史的対立の手段として片付けられない理由は、ミッテ区のドイツ人たちが語っている。ミッテ区のシュテファニー・レムリンガー区長は、カール・ペータースの名が町から消えたことは「正しくて良いこと」だとしながらも、市民社会に感謝を示しながら「非常に長くかかったことを後悔する」と述べたという。少女像に向けられた区長の最後の返事が気になる。 チャン・イェジ|ベルリン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )