角栄からのカネのありがたみは他の元首相の「何十倍にも感じられた」 大政治家に学ぶ正しい札束の渡し方
「角さんの金は負担にならない」
昭和51年(76年)7月にロッキード事件で角栄が逮捕・起訴された後も、一貫して角栄の無罪を主張した石井一元自治相(81)は、こうして角栄が醸成した“中間地帯”の賜物を目の当たりにしたことがある。 「オヤジの逮捕後に行われた昭和54年の総選挙の後、衆議院の議院運営委員だった私は本会議場のオヤジの席を替えようと思い立った。すでに離党していた関係で、オヤジの席は議長席から見て左手の最前列に近い場所。本来、そこは無所属の陣笠議員らが座る場所だったから、そんなところに総理経験者のオヤジを座らせておくのは余りに忍びなかったんだ」 当時の議運のメンバーは11人。亀岡高夫委員長(故人)以下、6人が自民党で社会党が2人。残りは公明党、民社党、共産党の各1人だった。 「亀岡さんは“そんな難しいことができるのか?”と懐疑的でした。ところが、野党の理事たちは私の意図をすんなり理解してくれた。誰一人として“党本部に持ち帰る”なんて面倒なことは言い出さない。いま思えば、野党の理事たちもオヤジと何らかの付き合いがあったんだろうな」 彼らと角栄にどんな関係があったのか、もはやその有無も含めて知る術もないが、政治評論家の小林吉弥氏は次のように指摘する。 「政界では“角さんの金は負担にならない”と評判でした。それは、とにかく角さんは口が堅く、札束を渡した相手については一度も口外することがなかったから。金のやりとりは当事者双方が黙っている限り、外に漏れることはありません。国会議員は殊更に評判や外聞を気にする人気商売。角さんは、そういう議員の心理を熟知していたのです」 秘密の共有は、時に人間関係を強固なものにする。札束を配る機会とは無縁の我ら庶民だが、その行為を「田中角栄」というフィルターを通してのぞいてみれば、自ずと学ぶべき点が見えてくるのである。 前編「逮捕から48年、田中角栄が教える“正しい札束の配り方” 側近議員は『俺が運んだのは1億円』」では、札束の角を丸めるという角栄流の細かい気配りの秘密にも迫っている。 (本記事は、「週刊新潮」別冊 創刊60周年記念/2016年8月23日号に掲載された内容を転載したものをもとにしています) デイリー新潮編集部
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