『かがみの孤城』で考えるフィクションの役割 童話的な“オオカミの恐怖”が持つ意味とは
童話の世界では、オオカミはしばしば敵役として描かれる。彼らがなぜ羊を狙い、赤ずきんちゃんを追うのか、「食べたいから」以外の理由は語られない。しかし、一つの問題に対してさまざまな角度から光を当てることで、童話では描かれないオオカミの物語を描き出す映画が存在する。それが『かがみの孤城』だ。 【写真】『かがみの孤城』場面カット(複数あり) ※本稿は映画の結末に一部触れています 中学生のこころは、学校でのいじめが理由で、自室に引きこもって生活していた。しかし、ある日彼女の部屋の鏡が突如として輝き始め、その先に続く世界へと迷い込んでしまう。彼女が目にしたのは童話の世界から抜け出したかのような城と、見知らぬ6人の中学生たちだった。 その場には、「オオカミさま」と称される狼のマスクをつけた少女が現れ、「城に隠された鍵を探し出せば、どんな願いも叶える」と宣言する。彼らに与えられた時間は約1年。最初は戸惑いながらも、鍵を探す冒険を通じて、子どもたちは次第に絆を深めていく。 こころを含む7人が共有する城のルールは「日本時間の朝9時から夕方5時まで城に滞在できる」というもの。つまりそれは、彼らが学校に通っていないことを暗示していた。 『かがみの孤城』は、いじめや不登校といった深刻な問題を、加害者、教師、周囲の生徒など多様な視点から描き出す。しかし、それだけにとどまらず、居場所に関する考え方をも拡げてくれる作品のように思う。その鍵を握るのは、こころの大切な友人・東条萌の存在だ。 「バカみたいだよね。たかが学校のことなのにね」 「負けないでね、こころちゃん。わたし今度こそ、嫌なものは嫌っていう」 ここで萌が使う「たかが学校」という言葉は、学校だけがすべてではなく、人生にはそれを超えた多くの場所や関係が存在することを教えてくれる。確かに、こころと同年代の「あの頃」の自分にとってもまだ理解し難い事実だったかもしれない。現実世界を乗り越えるために必要なのは、ほんの少しの新しい視点である。その小さなヒントをくれるのもまた、こころが遠ざけていた“人との繋がり”なのだ。 『かがみの孤城』は辻村深月の代表作とも言える小説の映画化であり、原作に対する熱心なファンが存在する一方で、映画としてもその質が高く評価されている。ロシア生まれのイリヤ・クブシノブによる独特の孤城のデザインや、アンティークな家具で飾られた城の壮大さ、さらには鏡を通じて異世界へと誘う魅力など、視覚的に楽しめる要素が豊富だ。 声の演技を担う声優陣も、作品の魅力を一層引き立てている。主人公・こころの声を務めるのは、『最高の教師 1年後、私は生徒に■された』(日本テレビ系)、NHK大河ドラマ『どうする家康』などで実力を見せた當真あみ。さらには北村匠海や宮﨑あおいをはじめ、若手俳優から日本を代表する声優まで、華やかなキャストが集う。 注目すべきは、『忍たま乱太郎』や『名探偵コナン』で知られる高山みなみが、皮肉屋でゲームを愛するマサムネ役を演じていることだろう。ちなみに『かがみの孤城』では彼女の演じるコナンの名台詞を聞けるという、ファンにはたまらない演出が施されている。 声に関する遊び心は、別のシーンでも見受けられる。こころが母親と「心の教室」へ入るシーンでは、子どもたちの声の中に、矢島晶子の演じる“あの幼稚園児”の「これ、オラのだぞ!」というセリフが隠されているのだ。これは、過去に『クレヨンしんちゃん』の映画を手掛けた原恵一が本作の監督を務めていることとも関連しているのだろう。初見ではなかなか難易度が高いので、耳を澄ませて聞いてほしい。 そしてやはり、映像で描かれるオオカミさまのスケールと“恐怖”は、実際に目の当たりにすると圧倒されてしまう。広大な城で孤独に陥る不安感を演出するオオカミさまの正体は、実は病気で学校へ行けなかったリオンの姉・ミオだった。 美しく神秘的な城には、夕方5時を過ぎてもまだ城にいる子はオオカミさまに“食べられてしまう”という恐怖のルールが設けられている。映画内で丁寧に描かれる彼女の生い立ちを知ると、その「食べる」という行動の背景にあるのは、ミオはこのゲームを通じて自身が感じている死への恐怖を分かち合いたいという願いなのではないかと感じた。 一方で、学校に行けない子どもたちに対する、彼らがまだ“明日死ぬわけではない”という仄暗い羨ましさもあったのかもしれない。普段通りに生活する子どもたちと、ともに遊ぶ楽しさと自分が抱える死の恐怖という、相反する感情を共有したい。まさにこの城は、オオカミであるミオの矛盾する想いが、あわせ鏡のように強く映しだされた「孤城」なのだろう。 学校とは、子供たちが家庭の外で初めて触れ合う社会の縮図である。つまりは、彼らが大切な時間を共有し、友情や知識を育む場所だ。大人にとっては、この役割を職場が担うこともあるに違いない。 そんな社会から疎外されたとき、扉を開いてくれる『かがみの孤城』は、映画や本というフィクションの役割そのものを象徴しているようにも思える。時には、ミオのように暗い気持ちが投影されることもあるかもしれない。それでも現実から一時的に逃れ、心に風をゆっくりと通す場所。『かがみの孤城』とは、そういう場所なのだ。
すなくじら