陰陽師の呪法・反閇 道長に問われた安倍晴明の進言とは 大河「光る君へ」コラム
第20回では、藤原伊周(演・三浦翔平さん)・隆家(演・竜星涼さん)兄弟が花山法皇に向けて矢を放ったり、呪詛をしたりしたことによって左遷されることがありました。藤原道長(演・柄本佑さん)が安倍晴明(演・ユースケ・サンタマリアさん)に行く末を尋ねるシーンで、伊周はあなた次第、隆家はあなたの強い味方になると晴明が進言します。 【写真】当時の京都は「闇の世界」? 僧侶や陰陽師が活躍 小さな橋に残るいくつもの伝説 この場面で、安倍晴明は、4本の竹に囲まれたところで、足を上げ独特の歩みをしていました。これは、陰陽師の呪法の一つで「反閇(へんばい)」といいます。今回は、この呪法についてみていきましょう。 安倍晴明は陰陽寮という役所の官人でした。奈良時代に作られた養老令によると、その長官は、「天文、暦数、風雲の気色のこと、異なること有らば密封して奏聞せむ事」を職掌とすると記されています。天体観測、造暦、気象観測を行い、異常があれば密封して天皇に奏上します。この役所には、陰陽師が六人いました。彼らは、「占筮」「地相」を行っていました。「占筮」は占いのことで、「地相」は建物の建立にあたって土地を占うことです。そして、陰陽博士―陰陽生、暦博士―暦生、天文博士―天文生があり、技術が伝承されていました。この他、水時計で時間を測る漏尅博士と時を告げる鐘鼓を打つ守辰丁が配置されていました。 このように陰陽師は、天体・気象観測や占いを行い、朝廷の危機を予知することが仕事でしたが、平安時代になると陰陽道がさまざまな祭祀を行うようになります。「反閇」とは、陰陽道の基本的な呪法の一つです。 反閇の典拠は、隋・唐代の五行家説である『玉女反閇局法』です。遁甲式占(式占は式盤を回転し、吉凶を占う)にもとづき、反閇局という場所をつくり、玉女を神格として、局の中を禹歩(うほ)するものでした。禹歩とは歩みを進めるとき、二歩めを一歩めより前に出さず、三歩めを二歩めの足で踏み出す独特の歩き方です。 記録のうえでは、貞観14年(872年)以降に作られた朝廷の儀式書『儀式』巻第八「相撲節儀」に「中務丞内舎人等を率い相撲司に向う、陰陽師相撲人等を率い、反閇す」とあるものが最も早い事例です。また、菅原道真の漢詩文集『菅家文草』巻七「左相撲司標所記」に「陰陽寮」が勘文を出すことが記されており、しかも承和13年(846年)とあり、9世紀には、相撲節と陰陽寮に関係があったことがわかります。 10世紀になると、貴族が殿舎を新しく造り、新宅に初めて渡る「移徙(わたまし)」の際に「反閇」が行われます。天暦4年(950年)、村上天皇の女御安子の出産に際し、産所の藤原遠規宅から父藤原師輔の「中御門家」に移るとき、遠規宅の「門を出でんと欲する間、陰陽助茂樹宿祢をして反閇の事を行なはしむ」(『御産部類記』)とあります。陰陽助平野茂樹が反閇を務めています。また、天皇の行幸の際の反閇は、天徳4年(960年)、内裏焼亡後、村上天皇が避難先の職御曹司から内裏としての造作を加えた冷泉院に遷るとき、天文博士賀茂保憲が反閇を務めています(『日本紀略』天徳四年十一月四日条)。 安倍晴明は、藤原実資(演・秋山竜二さん)の日記『小右記』永延元年(987年)二月十九日 条に「凝華舎より清涼殿に遷御す。晴明、反閇を奉仕す。然る後、遷御す。」とある一条天皇(塩野瑛久さん)の遷御や『小右記』寛弘二年(1005年)三月八日条に「今日、中宮、大原野社に参り給ふ。…晴明、反閇を奉る。」とある中宮彰子(見上愛さん)の大原野神社参詣にともなって反閇を行っています。 さらに、藤原行成(渡辺大知さん)の日記『権記』長保二年(1000年)十月十一日条の一条天皇の里内裏であった一条院を出御し内裏に入る際、出御時だけでなく、新造の内裏に入る時にも反閇を行ったのです。 …御輿、未だ南階の前に到らざる前、晴明朝臣、御返(反)閇を奉仕す<応和の例、陰陽寮、供奉し散供す。此の度、晴明、道の傑出者たるを以て、此の事に供奉するなり。>。 晴明は陰陽の「道の傑出者」だからこのことに奉仕することを許されています。この後、貴族社会で「移徙(わたまし)」だけではなく、様々な陰陽道の祭祀でも行われることとなりました。 さて、反閇の足の運びは、後世、芸能にも取り入れられました。能の「翁(おきな)」や歌舞伎、文楽の「三番叟(さんばそう)」です。いまでもこれらの芸能では、「踊る」「舞う」とはいわず「踏む」と表現されています。陰陽師の呪法は、芸能の世界にも引き継がれているのです。 (園田学園女子大学学長・大江 篤)
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