血のつながりあればいいの?國村隼が考える家族とは
映画を続けたいと思ったきっかけ
作品について穏やかに語る國村だが、エンジニアになりたくて工業高等専門学校にまで行きながらなぜ俳優になったのか。 「順調にいけば自動車メーカーの設計部門に入り、できればエンジンを手がけたかったですね。でもたまたま僕、小学校2年生くらいのとき演劇部に入って、そこでちょっと人前でお芝居みたいな経験をしたことがあったんです。それでエンジニアの道からドロップアウトしたとき、ある劇団の研究生募集があって、それがきっかけで芝居の道に入ったという。エンジニアという仕事とは別なようでいて、作業自体はものを作るということで共通項も多いと思いました。とくに映画はカメラにしても録音にしてもメカニカルな部分が入って来ますでしょ。もの作りの仕事って、やらなければならない課程というか、工程というか、ほぼほぼ似ています。そんな風に考えたりして面白がってやれたんだと思います」 國村といえば、“国際派俳優”としても知られる。リドリー・スコットやクエンティン・タランティーノといった海外の名匠の作品にも出演してきた。中でも1989年の『ブラック・レイン』はいろいろなことを教えてくれたようだ。 「日本の映画とはバジェット(予算)がそれこそ何十倍、何百倍も違う。規模もシステムも違うのですが、出来上がったものは結局、2時間の光と影のエンターテインメントなんですよ。映画デビューは井筒和幸監督の『ガキ帝国』だったのですが、『ブラック・レイン』とは別の面白さがある。そのとき、映画というメディアが持つ奥行きとか幅、ものすごい許容量を感じて、これは面白いメディアだと思った。それが、映画を続けてやっていきたいと思ったきっかけになりましたね」
40年超えたキャリア 慣れが一番怖い
気がつくと、キャリアは40年を超える。 「僕らの仕事って、へたをするとルーティーン作業に入ってしまいがちなところがある。やっている人間がドキドキ楽しんでいないと、小ぎれいにまとまったものは作れても、観ている人も一緒にドキドキできるようなものにはならない。だから、慣れが一番怖いんです。右と左、二つ方法があるなと思ったとき、つい慣れたほうを選んでしまう。でもそうじゃなくて、逆に行ったらどうなるのかわからないけど、大変かもしれないけど、そのほうがドキドキできる。常々、自分の中で『大丈夫か、大丈夫か』とセルフチェックをして、慣れないようにしています」 國村隼は楽しそうに、新鮮な笑顔で話し終えた。 (取材・文・写真:志和浩司)