日本にいた元祖両手投げ投手に聞く苦難と努力
小中学校で空手、砲丸投げ、卓球などで頭角を表したスポーツ万能少年は名門・明徳義塾高にスカウトされ、本格的に野球の道に進むことになる。社会人の本田技研鈴鹿時代には練習の手伝いで左右の腕で打撃投手を務めたことから、両手投げを練習し始めたが、当時は両投げの概念自体が希薄で、社会人時代に公式戦で両手投げを試す機会はなかった。 「当時、僕には右対右、左対左が有利になるという意識はありませんでした。直球は右が得意で、変化球を投げる時は左のほうが良かった。更に言えば、球数が増えてきて左腕が疲れてきたから、右で投げるという感覚もありました(笑)」 なんとも牧歌的な時代。 右で直球、左で変化球を投げたら打者に球種が丸分かりだが、ベンディットがマイナーでプロデビューした08年に「先に投手が投げる腕を示す」というルール8・01(通称バンディットルール)を定める以前の時代。同一打者の間に投げる腕を替えることができたようだ。ただ、両投げ投手に対する世間の風当たりは冷たかったようだ。 「まずは、本来の左投げを一人前にしてからだという人も沢山いましたし、今から思えば、そういう風潮に自分自身が負けてしまったというのはあります。そこに悔しさはありますよ」 近田氏の挑戦は結局5年で終わった。91年。タイガースを任意引退。ゴルフのレッスンプロで活躍する一方、ベンディットがヤンキースとマイナー契約した08年に42歳で渡米。マイナーリーグのトライアウトに参加(不合格)した際にベンディットの存在を知り、心密かに応援してきたという。「ベンディット投手がメジャーに昇格したお陰で、私のこともメディアに取り上げて貰って、今週、私の携帯電話は鳴りっぱなしですよ。いつか会ったらありがとうと言いたいですね」と“元祖両投げ”は笑った。