【ぴあ新連載/全13回】伊勢正三/メロディーは海風に乗って(第3回)
「なごり雪」「22才の別れ」など、今なお多くの人に受け継がれている名曲の生みの親として知られる伊勢正三。また近年、シティポップの盛り上がりとともに70年代中盤以降に彼の残したモダンで緻密なポップスが若いミュージシャンやリスナーによって“発掘”され、ジャパニーズAORの開拓者としてその存在が大いに注目されている。第二期かぐや姫の加入から大久保一久との風、そしてソロと、時代ごとに巧みに音楽スタイルを変えながら、その芯は常にブレずにあり続ける彼の半生を数々の作品とともに追いかけていく。 【全ての写真】学生時代ほか 第3回 灰色の青春 僕が進学したのは、地元の津久見高校ではなく大分舞鶴高校だった。家から通うには遠かったので寮に入ることになった。一人っ子で、比較的ぬくぬく育てられてきた僕は、いきなり親元を離れて誰も知らない土地で暮らすということが嫌で嫌でたまらなかった。母としては、そんな僕がこのままではダメになると思って、かわいい子には旅をさせろ、ではないけれど、思い切って遠くにある高校に行かせたのだと後々言っていた。 正直に言うと、高校時代にはあまりこれと言って楽しい思い出はない。ただ、僕の入った音楽部の3年生に南こうせつさんがいて、彼と僕の同級生で男3人のフォークグループを組んで少し活動したというのが唯一と言ってもいいくらいの思い出だ。 音楽部と言っても、いわゆる軽音楽部ではない。合唱部だ。しかも、入りたくて入ったというわけではなかった。入学式の日に部活動の勧誘で応援団に入れられそうになったのだ。いきなり部室に連れ込まれて白い手袋を渡されて……。これはマズい! それで慌てて、直前に勧誘されていた音楽部に逃げ込んだというわけ。 けれど、音楽部に誘われたときは、とんでもない、自分にはまったく向いていない部活だと即座に断っていた。選択科目でも音楽ではなく美術を選んでいたし、中学のころにはウクレレでは物足りなくなってギターを弾いてはいたのだが、合唱なんてやりたいとも思わなかった。とは言え、応援団よりはまし。仕方がないから放課後に音楽部の部室に行ったら、そこにクリクリ坊主頭に黒縁メガネの部長がいて、その人がとんでもなく歌がうまい。それが南こうせつさんだった。率先して部員が歌うのを指揮したり、そのころからこうせつさんはこうせつさんだった。 冒頭に触れたフォークグループのきっかけももちろんこうせつさんだ。音楽部の練習が一通り終わると、こうせつさんがギターを弾き始める。 「誰か一緒に弾けるやついるか?」 「コード3つくらいなら押さえられます」 そんな感じで自然発生的に始まった。とは言え、注目されるのはキャンプファイヤーのときくらいだったけど。一度、ヤマハの主催するコンテストに出場しようというので、学校に許可を申し込んだら、そこはとにかくお堅い進学校、出てもいいけど制服で、という条件を突きつけられた。まさかそんな格好悪いことできるわけがない。制服でのこのこ出かけたりしたら、まわりのやつらに馬鹿にされるのがオチだ。そこでこうせつさんが交渉して、ポロシャツであればOKというところまで譲歩を引き出すことができた。 そのグループではオリジナルも何曲かやってはいた。けれどまさか僕自身が音楽の道に進もうなんてことはこれっぽっちも考えなかった。こうせつさんは段違いに歌がうまかったから、この人はいずれプロになるんだろうと自他ともにそう思っていたら、案の定そうなった。僕は高校卒業後、大学進学を目指して福岡の予備校に行くことになった。 その予備校でも寮住まいだったわけだが、体育館みたいながらんとした広い空間に二段ベッドがずらーっと並んでいるようなところで、おまけに福岡市内の繁華街からはかなり遠い場所にあった。それでも月に一回ほど博多に出て、地元で活動していたチューリップの前身バンドのザ・フォーシンガーズや、当時はまだかなりパンクで硬派だった海援隊など、貴重なライブを肌で体感することができた。 寮にギターも持ち込んでいたので、時々予備校の仲間たちと海へ行ってギターを弾きながら一緒に歌ったりしていた。そんなことくらいしか生きている実感も湧かなかった。予備校に行ってますます勉強が嫌いになったし、この先どうしようか……どんどん悲観的になっていった。 そんなときだった。こうせつさんから連絡があったのは──。 取材・構成:谷岡正浩