無主の海が未来を照らす(9月22日)
そういえば、東日本大震災のあとに、思いがけぬ形で『無縁・公界・楽』との再会を果たした。わたし自身が大きな学恩を受けてきた中世史家、網野善彦さんの代表作の一つである。網野さんの数多い仕事のなかでも、群を抜いて異端の書としての評価が高い本だが、そろそろ中世史研究の窮屈なくびきから解放してやるべきではないか、と感じてきた。 震災の年であった。爆発事故を起こした福島第一原発が撒き散らすことになった放射性物質をめぐって、福島県内のあるゴルフ場が起こした裁判のなかに、「無主物」という言葉がキーワードとして登場していた。民法の「無主物」規定を根拠にして、東京電力には無主物である放射性物質を回収する義務はないと、免責する判決が出された。このニュースに触れて驚きを覚えた。 わたしのなかには前史があった。以前から、無主・無縁のフォークロアに関心があった。網野さんは中世史の立場から、無主とか無縁といった言葉にからみつく負の呪縛をほどいてみせた。民俗学では、浜辺に漂着した寄り物や、山で採れるキノコなどは無主物とされ、第一発見者の所有に帰するといった習俗が注目されてきた。どうやら、そうした民俗慣行が明治の民法のなかに、法律用語として「無主物」の名で取り込まれたらしい。それが放射性物質に転用され、無主物だから回収の義務はないという判例になったらしい。
柳田国男にはモノモライについてのエッセイがある。子どもが眼病のモノモライにかかったとき、近所の家を回って米をもらい、それを混ぜ合わせて炊いて食べると治る、という。「七軒乞食」と呼ばれる習俗があった。物もらいのルールとして七軒の家から施しを受けねばならない、というものだ。特定の家からたくさんの施しを受ければ、いわば主人―奴隷の関係で縛られる。無主・無縁の誇りを持って生きるための、乞食[こつじき]の作法であった。中世の無主や無縁という言葉には、自由や平和などの意味合いが秘められていたようだ。 浦や浜辺は無縁の場であった。そこに流れ寄る漂着物には、無主・無縁の性格が認められていた。それら寄り物は誰の所有物でもなく、仏や神のものとして聖なる意味をもっていた、という。戦後のある時期、この寄り物に、やはり柳田が関心を寄せたことがあった。また、網による獲物の分配習俗のなかに、海という場の無主・無縁性が色濃く見いだされる。海で獲れた魚は、市場に卸されるまではまだ網元の所有でなく、みなで分配することが慣行として許されていたのである。
震災から間もない時期であったが、浜辺で寄り物を拾い集める人々の姿を見たことがある。津波に洗われた海岸線には、ほんのつかの間、無主・無縁の世界が広がっていた。新しい海との関係が姿を現わしかけて、すぐに見えなくなった。みんなの海について語る若者もいた。コモンズとしての海が将来への鍵になるのかもしれない、と感じている。(赤坂憲雄 奥会津ミュージアム館長)