じつは、「順天堂の歯科医」...週刊誌に暴かれた「伝説の踊り子」の虚偽にまみれた「驚愕の過去」
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるまでに落ちぶれることとなる。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第25回 『伝説のストリッパーの肉体から「シューッとこぼれんばかりに」…昭和の男たちの生きる源となった「聖なるしずく」の正体』より続く
戦時下の川口にて
一条さゆりは1937(昭和12)年6月10日、埼玉県川口市に生まれた。名は須藤和子。子どものころは、みんなに「わこ」と呼ばれていた。 和子が生まれる直前、第1次近衛文麿内閣が発足し、翌月7日には北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突して戦争が始まっている。日本が壊滅的戦争へ踏み出したのと時を同じくして、和子は生を受けた。 川口は古くから鋳物産業で栄え、溶解炉(キューポラ)が多いことから「キューポラのある街」と呼ばれた。31年の満州事変以降、鋳物は軍需産業化し、川口も戦争と関わりの深い街になっていた。 父の安通は鋳物師で、叩き上げの仕上げ職人だった。私とのインタビューで一条は、安通の職業について、「医療関係だったと思う」と言ったり、「順天堂で歯科医をしていた」と語ったりしたが、すべて作り話である。戦時中、安通は隣組の組長をし、戦後は県税事務所から委託を受け徴税の仕事もしていた。
虚偽に塗れた過去
9人姉弟の多くが幼くして病死し、残ったのは三女、四女、そして七女の和子だった。家は棟続きの長屋で、1畳ほどのたたきと2畳の板の間、奥に4畳半と6畳の和室、小さな台所が付いていた。 生家は現在のJR西川口駅から西に20分ほど歩いた住宅街にあった。周辺には今も鋳物工場がある。私は2022年、ここを訪ねたが、すでに生家はなく、2階建てのアパートが建っていた。近所の人はこう言った。 「ヌードかストリップか何かやっていた人が、ここの出身だったという話は、昔聞いたことがあります。でもその家が取り壊されたのは、どうでしょう、もう40年以上前になるでしょうか」 近くには新しいマンションや家電量販店が建ち、当時とは相当、街の雰囲気も違っているはずだ。 彼女の経歴や家族関係には謎が多い。出身地については多くの資料が「新潟県柏崎市」としている。本名を「美智子」としている資料も少なくない。彼女自身がその時々で、虚偽の説明をしていたためである。 最初に彼女の過去について、真相を明かしたのは週刊新潮の取材班だった。一条の死から2ヵ月後、「ストリップの女王 実録・一条さゆり『凄絶の生涯』」と題する「特別記事」を4週にわたって組んでいる。 そして、その情報を基に、晩年の一条をよく知るカメラマン(当時)、加藤詩子が家族や親類から話を聞き、『一条さゆりの真実 虚実のはざまを生きた女』を書いた。
小倉 孝保(ノンフィクション作家)