マルニのフランチェスコ・リッソ、自由な創作スタイルの原点──グローバル・クリエイティビティ・アワード2024
マルニのクリエイティブ・ディレクターに就任して8年目となるフランチェスコ・リッソが2024年、あらゆる分野で時代を切り拓く先駆者たちを称える『GQ』のグローバル・プロジェクト、「GQ Global Creativity Awards」を受賞! エキセントリックな作風で知られる彼は、ファッションで成功するためにはビジネスばかりを追求する必要はないと証明する。 【写真を見る】紙の洞窟の中で行われたマルニの2024年秋冬コレクションをチェック! マルニのクリエイティブ・ディレクター、フランチェスコ・リッソが最新コレクションの制作に際し取りかかったこと。それは“原始”に立ち返ることだった。彼はまず、ミラノのスタジオの床から壁、机や椅子まで、あらゆるものを紙で覆うことから始めた。リッソは自身やチームが「直感的な創作」ができるよう、「周りの情報全てをシャットアウトしたかった」のだという。彼は、スタジオの一部を洞窟に変えてしまったのだ。 その行動は多くの来訪者を困惑させた。「なんて説明したらいいか」と話すのは、テルファー・クレメンスとの仕事でも知られるアーティスティック・ディレクター、ババク・ラッドボーイだ。マルニとも頻繁にコラボレーションしてきた彼は言う。「見たこともない、繭のようなものでした」 リッソはさらに、その洞窟をより完全に外界から遮断するため、あらゆる画像資料をそこから締め出した。これは異例の措置などというレベルではない。ムードボードや参考イメージの使用は、現代のファッションを構成する基本的な要素の一つだからだ。しかし、狂気にも見えるリッソの行動にも理由がある。「現在のファッションは情報過多に感じられます」と、彼は言う。着想源となったのは、かつてヴァージニア・ウルフが綴った手紙だった。 友人を自身の田舎の家に招待する内容のその手紙は、「服を持ってこないで」というウルフのウィットに富んだ言葉で締めくくられていた。「もちろん、彼女は裸で来いと言っているのではありません」と、リッソは言う。そうではなく、彼女は何を着ていくべきかという「社会の抑圧的な行動様式」を脱ぎ捨ててきてほしい、と言っているのだという。このような解釈に、リッソは深く感銘を受けた。 「デザインや販売のやり方において、我々が作り上げてきた様式に対してこれがどんな意味を持つのだろうと考えさせられましたね」。彼のチームが洞窟に“服を持って”くることはなかった。だからこそ彼らは「期待や必要性、数字で示される指標やSNSにも影響されずに」創作ができたのだという。 ある意味でこの洞窟は、ファッション界屈指の魅力的かつ型破りなデザイナーへと育ったリッソの、過去8年間の歩みを象徴しているようでもあった。イタリアのメンズウェアは伝統を重んじる傾向にある。しかし2016年にマルニに参加して以来、リッソはそれとは切り離された、まったく予想のつかない独自の宇宙を築き上げてきた。彼は、ファッションへの幻想は事業の二の次とすべきだという、現代のラグジュアリービジネスにおける商業至上主義に公然と反抗している。完全な創造的自由と無限のイマジネーションを味方に、彼はかつて決定的な独自性に欠けるとされたブランドをファッション界の変わり者や反逆者、はみ出し者たちが集う一大サークルへと育て上げたのである。 ■自然発生的なチームワーク 現在41歳のリッソと私がビデオ通話で話したのは、この冬のある日のことだった。本で埋まったミラノのオフィスにいた彼は、剃った頭にハンチング帽を被り、手振りをするたびに両手のひらに入ったタトゥーをちらつかせた。このときは、それについて彼に尋ねる暇はなかった。リッソがミラノで最新コレクションを発表する日まで、残り1週間余りしかなかったのだ。 彼の背後に見えた紙の洞窟では、チームが最終仕上げをしているところだった。「皆が縫製やペインティング、アイテム製作に励んでいるところです」と、彼は話した。──ちょっと待て、ペインティングだって? リッソは笑って答えた。「チームはペインティングに燃えています。ここマルニでは、ペインティングはテクスチャーやプリント、そしてときにはガーメントそのものを生み出す主な方法の一つです」 当然ながら、たいていのファッションブランドはスタジオに塗料の飛び散った洞窟を備えたりはしない。しかしリッソは、マルニをまったく違うように考えている。「このブランドは生命体なのです」 リッソにとって、全ては独自の自然発生的な創作プロセスから生まれる。ラッドボーイは言う。「彼がスタジオを指揮するさまは、まるで先進的な美術学校を見ているよう。そこには密な交流があるのです」。多くのクリエイティブ・ディレクターと同じく、リッソはブランドの長である。しかし、マルニはどちらかといえばデザイン集団、あるいはDIYで服を作り年に4回コレクションとして発表する、大規模な友人同士の集いのようにも感じられる。 彼らが本領を発揮したとき、リッソの究極の理想が形となる。作り手と同じくらい人間的で親密、そしてエモーショナルなものを服で表現するというのがその理想だ。例えば、今やマルニの定番となったマペットのようなモヘアセーターは、「優しさと愛」を伝えるために作られた。これらの服はしばしば目を見張るほど色鮮やかで、道化師のようなストライプ、アシッドなチェック、庭園と見紛うほどのフローラルで溢れている(リッソはストライプを愛するあまり、ブランドのチーフ・マーケティング・オフィサーのチュンゲイズ・カーン・ムムターズと商標登録について議論したほどだ)。 彼のチームは、緊密な連帯を見せるスタジオの外にも及ぶ。もともと家族経営ビジネスとして始まったマルニだが、今ではそこにリッソ自身の“ファミリー”が加わった。ラッドボーイ、ブランドの音楽を担当するミュージシャンのデヴ・ハインズ、スタイリストのカルロス・ナザリオ、そしてリッソのパートナーでアドバイザーでもあるクリエイティブ・ストラテジストのアレックス・ソッサーがそうだ。ニューヨーク、東京、パリを巡った3つのランウェイショーで、リッソは旅の仲間に新たなメンバーをさらに加えた。今でもショーにモデルとして登場するスケーターやアーティストたち(マルニのランウェイモデルは、その服と同じくらい個性的だ)から、エリカ・バドゥまで。バドゥは、同ブランドのカプセルコレクションをデザインしただけでなく、2022年のメットガラにリッソとともに出席している。 「自分一人の創造性を表現することには興味がありません」とリッソは言う。「これは冒険なのです。私の好きな人々とのね」。その言葉を裏付ける証言を、私はマルニの仲間内から繰り返し耳にした。ラッドボーイは「フランチェスコがプロセスよりも結果を重んじることはない」と話す。一方、ムムターズは「一枚のスケッチから始まった服もそこから発展していくわけではない」と言う。「スケッチそのものが重要なのです」 リッソの型破りなアプローチの何がすごいかと言えば、それが実験的なプロジェクトでありながら、飛ぶように売れているという事実である。実際、リッソは小売店や銀行家から感嘆の声が漏れるほどの成長をブランドにもたらしている。2021年から2023年にかけて売上を29%増加させたマルニは、ジル サンダーやメゾン マルジェラも所有するファッション・コングロマリット、OTBの稼ぎ頭なのだ。 私が想像するに、リッソはビジネスの成功に喜んではいても最優先とは考えていない(メンズウェアはマルニの売上25%を占め、今も成長中だとムムターズは話す)。「違ったやり方を私は知りません」と、自身のエキセントリックな方法論についてリッソは言う。「喜びを感じていますよ。ただ無造作に製品を作って販売しようというのではなく、私たちの服に触れ、エモーションを感じ取ってくれる人々に訴えることができているということにね」 ■自由気ままな創作の原点 フランチェスコ・リッソがボートの上で生まれたと聞いて、驚きはないかもしれない。「幸い、そのときのことは何も憶えていません」と、彼は冗談めかす。それは1982年12月のことだった。両親の暮らしていたヨットは、サルデーニャ島の沖合で冬の嵐に揺られていた。父親はジェノバの上流階級出身の弁護士で、母親は不動産事業に携わっていた。リッソのパンク気質は父親譲りだ。父親も海原を目指したときには同僚たちを驚かせたことだろう。 「父は非常に風変わりな生活をしていました」と言うリッソも、この世に生を受けてからの5年間をささやかなボートの上で過ごした。それは厳しい生活だった。「緊急事態」には、船外に投げ出されないようデッキにロープで縛り付けられた。しかし時が経つに従い、彼は完全な自由を謳歌できた子ども時代を見直すようになったという。「あの生活が今の私を作ったのです。文字通り波の上で生まれ、流れに身を任せてきましたからね」 海上で育ったせいか、リッソは居場所を転々とする生活にも慣れっこだった。彼は進学のため16歳でフィレンツェに移り、やがてニューヨーク州立ファッション工科大学に編入した。その後、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズで名物教師ルイーズ・ウィルソンのもと、ファッションデザインの修士課程を修了した。しかし、彼が本当の意味で教えを受けたのはミラノでだった。ミウッチャ・プラダと密に連携をしながら働いたプラダでの8年間、彼は最初はニットウェアを、やがてウィメンズウェアのデザインを任されるまでになった。 プラダでは「独創性は極限まで追求されるが、同時に極限までふるいに掛けられるものでもあった」と、リッソは振り返る。自身のサイケデリックなアイデアを人気のプロダクトへと昇華する方法、そして前者を突き詰めれば、自ずと後者も達成されるということも、彼はプラダで学んだ。リッソの作風が顕著に表れたシーズンがある。プラダの2011年春夏ウィメンズコレクションで、彼は手描きによるバナナや猿のグラフィックにカラフルなストライプを大胆にぶつけ合わせた。 「あのコレクションの制作には夢中になりました。バナナのペインティングからドローイング、それに出来上がった服までね」と、彼は言う。「プラダでは、どんな瞬間にもその瞬間だけの夢がありました。それらは必ず、いつも違った視点から作られるものでした」 リッソが“船”を乗り換えたのは2016年、マルニの創業デザイナー、コンスエロ・カスティリオーニの引退に伴ってのことだった。その4年前にOTB傘下となっていたマルニは、知名度はあるが比較的はっきりとした個性を持たないでいる“原石”として、ファッション界でも希有な存在だった。ラッドボーイは振り返る。「かつてはイメージよりもカスタマーを優先していたブランドでしたからね」 リッソが「マニフェスト」と呼ぶ、OTB代表レンツォ・ロッソへの売り込み文句は、マルニは“ミステリーボックス”であるというものだった。「私としては、このブランドはファッション・システムの外側にあるように思えます。大きなクエスチョンマークが書かれた箱のようなもので、中に何があるのか興味をそそられながら開けると、出てくるのは同じ箱。その繰り返しなのです」 2024年秋冬コレクションで、リッソのチームはその箱の中からまったく予想もしていなかったものを披露した。ショーの前日、私は明るく照らされたスタジオの真ん中に、椅子に座ったリッソを見つけた。ソッサーとナザリオによるモデルのフィッティングを静かに見守っていたリッソだが、時折立ち上がって裾をピン留めしたりアクセサリーを交換したりしていた。 私がすぐに気がついたのは、コレクションの半分近くがオールブラックで占められていることだった。ストライプもフローラルも見当たらない。まったく非マルニ的である。しかしある意味で、そのこと自体が極めてマルニ的でもあった。洞窟の中で、リッソは次のように語った。「参考資料から離れることによって、本能が活発になると気づいたのです。それに色すら必要ないのだということにもね」 彼らはその代わり、マルニならではの創造性を別の方向に発揮させた。それは、身体にぴたりと張り付いたスポンジのようなウールのスーツや、凧のように舞いそうなドレスなどのシェイプ、そしてロラックス(ドクター・スースによる絵本のキャラクター)のようにふさふさとしたアウターウェアやバッグ、ペンで殴り書きした紙で作られたかのようにシュールなベロアのガーメントといった幻想的なテクスチャーに表れていた。 フィナーレに登場したルックは、どのアイテムも分厚い絵の具の層に覆われていた。衝動に任せたかのような筆の跡は、レザーパンツやファーコートを“マルニ印象主義”の名画とでも形容すべき作品に生まれ変わらせた。なるほど、スケッチが発展したのではない。スケッチはランウェイを歩いたのだ。 リッソがフィッティングに戻る前、私は最初にビデオ通話で目にした彼のタトゥーについて尋ねた。月の図柄が彫られた両手のひらを、彼は開いて見せた。リッソは昨夏、2つの月を夢に見たという。その夜、彼はマルニ・ファミリーの一員である一人の親友のことを考えていた。「その晩ずっと友人に連絡を取らなきゃと考えていて、結局そうはせずに寝てしまったのです」と、彼は言う。朝起きたときには、その友人から長文のメッセージが届いていた。創作について、そして彼らが一緒に手がけてきた作品についてだった。リッソは心を揺さぶられた。 「私のデザイナーとしての実存も、私の仕事も、仲間や友人たちがいてこそのものだと気がつきました」。そうして彼は、自身がマルニで創作をするときに使う「手」という部位に2つの月を刻み込んだ。その痛みは耐え難いものだったが、リッソはそれでもそうした。「どうして自分が創作をするのか、日々思い出すために」 フランチェスコ・リッソ ファッションデザイナー 1982年、伊サルデーニャ島生まれ。英セントラル・セント・マーチンズで修士課程を修了後、アレッサンドロ デラクア、マーロを経て、プラダでウィメンズコレクションおよびスペシャルプロジェクトを担当。2016年にマルニのクリエイティブ・ディレクターに就任した。 From GQ.COM by Samuel Hine Translated and Adapted by Yuzuru Todayama PRODUCTION CREDITS: Photographs by Colin Dodgson Grooming by Filippo Ferrari using La Mer Production by Take Off Production