元チームメイト・松井秀喜とメジャーで対決。岡島秀樹が回顧「松井さんと対戦するのはイヤでした」
メジャー初セーブを記録。チームメイトの信頼を勝ち取る
パペルボンが休養した4月23日には、クローザー役を託され、メジャー初セーブを挙げた。相手は宿命のライバル、ニューヨーク・ヤンキースだ。 「それまでずっと投げていなかったスプリットチェンジもヤンキース戦で披露しました。初めて見るボールに相手も驚いたと思います。この初セーブをきっかけに、チームメイトたちの僕を見る目がガラリと変わった気がします」 それまでは軽くあいさつをする間柄だったものが、相手から声をかけられる機会が増えた。あるいは、覚えたばかりの日本語で話しかけられるようにもなった。岡島は自らの実力で、名門・レッドソックスの一員となったのである。 「キャプテンの(ジェイソン・)バリテックは何度も食事に誘ってくれたし、(デビッド・)オルティーズは同学年なので家族ぐるみのつき合いでした。そしてマニー(・ラミレス)は親日家でものすごくウエルカムな人柄でしたね」
元同僚・松井秀喜との対決、ワールドチャンピオンへと導く
6月1日には、同じくヤンキース戦でメジャー初勝利をマークした。もはやチームに欠かせない存在となっていた。 「もともと、メジャーリーグの知識がほとんどなかったので、レッドソックスとヤンキースとの関係も、巨人と阪神のようなものなのだろうな、と理解していたんですけど、実際はファンだけでなく、選手も首脳陣も、ヤンキースに対するライバル意識は、僕の想像以上のものでした。『絶対にヤンキースには勝たなくちゃいけないんだ』というのは、早い時期から実感することができましたね」 ジョニー・デイモン、デレク・ジーター、アレックス・ロドリゲス、ジェイソン・ジアンビー、そして松井秀喜。当時のヤンキースは強打者揃いだった。 「他の選手はまだいいんですけど、松井さんと対戦するのはイヤでしたね。ジャイアンツ時代に勝負強さを間近で見ていましたから。目も合わせたくないほどだったので、ほとんど外角に投げてフォアボールばかりでした(笑)」
外国人であるという疎外感はなかった
渡米初年度となった’07年、レッドソックスはヤンキースを撃破した。さらにリーグチャンピオンシップシリーズ、そしてワールドシリーズを制覇してチャンピオンに輝いた。 「メジャーでの優勝が、僕の野球人生にとって最大の出来事でした。改めて『勝たなきゃ意味がない』『2位じゃダメなんだ』と痛感しました」 ’07年の66試合を皮切りに、それ以降も64、68、56試合と、完全に中継ぎ陣の屋台骨を支える活躍を見せた。 しかし、レッドソックスと再契約を結んだ’11年はオープン戦での不振が響き、渡米以来初めて、開幕一軍枠から外れてしまった。4月にすぐにメジャー復帰したものの、チームは他球団からトレードで投手を獲得。岡島の出番は急激に減ってしまったのだ。 「この年はマイナー暮らしが続き、シーズンオフにレッドソックスを離れることになりました。でも、すぐにヤンキースとマイナー契約を結ぶことができ、『まだアメリカで投げられる』と希望を抱いて、’12年を迎えたんですけど……」 ’12年のキャンプイン直前、岡島のもとに信じられない通知が届いた。メディカルチェックの結果、「あなたの肩には異常があるので、契約はできない」と告げられたのだ。 「本当に驚きました。何も痛みはなかったからです。それでも、医師の言うことは絶対なのでいくら言ってもダメでした。このときが、野球人生最大のショックでした」