大河ドラマ「べらぼう」でも踏み込んだ…天才・平賀源内は本当に「男ひとすじで歌舞伎役者が恋人」だったのか
■門人や友人に刀を向け、殺人未遂で牢屋に入った後に… その翌年は源内の運命の年となりました。安永8年(1779)11月20日夜、神田の源内宅に、源内の門人・久五郎と、源内の友人・丈右衛門が止宿していました。ところが、明け方に彼らは「口論」となり、源内は抜刀。両人に手傷を負わせるのです。久五郎は傷がもとで亡くなります。源内はこの事件が起こる前から、よく癇癪を起こしていたとされます(源内による殺傷事件の内容については諸説あり)。 犯罪者として牢屋に入った源内はその年の12月18日に獄中で病死。死因は破傷風であったとされます。「天才」とも称される源内ですが、その生涯をつぶさに見ていくと、数々の挫折や判断ミスがあったことが分かります。 ■源内は一生独身で、歌舞伎役者との仲は江戸中の話題だった もし源内が高松藩を去らなければ、経済的困窮に陥ることもなかったでしょう。源内は自由を追い求めた結果、不自由になっていったと言うこともできるでしょうか。 また、源内は一生、独身でした。「女ぎらい」で若衆(歌舞伎役者で、舞台に出るかたわら男色を売った者)好きだったとされます。吉原のことはよく分からないが、若衆が体を売る町には詳しかったとの見解もあります。 女形の人気歌舞伎役者、二代目・瀬川菊之丞と恋仲であることは、江戸市中でも有名でした。『根南志具佐(ねなしぐさ)』という男同士の恋愛を描いた戯作も出版し、その中にも菊之丞が出てきます。 ---------- 「この坊主は、(中略)、堺町の若女形、瀬川菊之丞といへる若衆の色に染められて、(中略)若衆の恋のしすごしに、尻のつまらぬ尻がわれて、座敷牢に押し込められ、したうかいなく己が身を、宇津の山部の現(うつつ)にも、逢はれぬ事を苦に病んで、むなしくあの世を去りけるが、だんまつまの苦にも忘れ得ぬは、路考(註:菊之丞の別名)がおもかげとなりとて、ここまでも身をはなさず、アア腰に付けたるは、鳥居清信がえがきたる菊之丞が絵姿なり」 塚本哲三・編『平賀源内集』(有朋堂書店、1922年)※一部を現代がなに変更 ---------- 参考・引用文献 ・城福勇『平賀源内』(吉川弘文館、1971) ・芳賀徹『平賀源内』(筑摩書房、2023) ・塚本哲三・編『平賀源内集』(有朋堂書店、1922)、国立国会図書館デジタルコレクション ---------- 濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう) 作家 1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。 ----------
作家 濱田 浩一郎