<私の恩人>桂文枝 噺家はへりくだるもの…一晩中泣いたあの言葉
「この人がいたから、今の自分がある」―。各界の著名人へのインタビュー連載「私の恩人」が今回からスタートします。第1回は落語家の桂文枝(69)。昨年7月16日に師匠の名跡を引き継ぎ、桂三枝から六代桂文枝となりました。襲名からちょうど1年経った今年7月16日には、記念公演「文枝フェスティバルinなんばグランド花月」を開催し、DVDボックス「桂三枝の笑宇宙」もリリースします。上方落語協会会長も務め、まさに上方落語界の顔となった文枝の恩人とは…。 「私の恩人」というタイトルで僕がお話をさせてもらう時に、師匠である故・五代目桂文枝の名前を挙げたら普通すぎて面白みがないのかもしれませんけど、やっぱり、この人をのけて、話はできませんわね。 関西大学を出て、師匠に弟子入りして三枝の名前をもらったのが47年前。昨年には、六代文枝を襲名させていただきました。 入門直後、師匠のかばん持ちをさせていただいた頃に教えていただいたことが、今でも深く深く心に残っています。しかも、年を経れば経るほど、ホンマに大きいことを教えてもらってたんやなと痛感しています。 ある日、師匠と一緒に街を歩いていると、大学の同級生に会ったんですわ。久しぶりやったうれしさもあって、「また、寄席(よせ)に出るようになったら、見に来てや!」なんて、話を師匠そっちのけにするくらいにしてしもたんです。 その後、内弟子をしていた師匠のお宅に戻って、晩ごはんをいただいている時、師匠から「きょう、話してたんは誰や?」と尋ねられたんです。「しもた!!話に夢中になって、師匠をほったらかしにしてしまったから、怒られる…」と思ったら、「そんなことやない」と。 「お前、きょう、気安い口調でしゃべっとったやろ。たとえ、同級生でも、その人はこれからのお前にとったらお客さんや。友達でも、気楽にため口でしゃべるようなことをしたらアカン。芸人は常にへりくだって、笑ってもらう仕事や。その自覚がない限り、いつまで経っても噺家(はなしか)にはなれん」と言われました。 芸人とはどういう仕事なのか、自分が入った世界はどういう世界なのか。昔からの友達であっても、もう普通にはしゃべられへん世界に自分は入ってしまったんや。好きで進んだ道。女手一つで大学まで行かせてくれた母親を悲しませてまで入った道。せやけど、やっていけるんやろうか。ホンマにこれでよかったんやろうか。いろいろな思いがめぐって、その晩はとにかく涙が出ました。 でも、今、古希(こき=70歳)を前に考えても、その言葉に芸人のあるべき姿が凝縮されてるなと思います。 師匠は74歳で亡くなって、そこで年齢が止まってますから、もう少しで師匠の年齢を越えることになります。 ただ、これだけは絶対に師匠にかなわないと思うことがあるんです。師匠には紫綬褒章をもらった弟子が2人もいるんです。僕と文珍と。これは、僕にはできないことです。 型にはめることなく、それぞれの伸びしろを最大限に伸ばす。だからこそ、僕しかり、文珍しかり、きん枝しかり、小枝しかり、あやめしかり、個性が全く違う弟子がたくさん育ったんやと思います。 言葉にするのが難しい感情ですけど、語弊(ごへい)を恐れずに言うと、僕も、三枝のような弟子を持ちたかったです(笑)結果的に、師匠と同じ名前にはならせてもらいましたけど、そこは、今でもうらやましいもんですわ。 (聞き手/文責 中西正男) ■桂文枝(かつら・ぶんし) 1943年7月16日生まれ。大阪府堺市出身。落語家(上方噺家)。1966年に先代の五代目桂文枝に弟子入り。桂三枝として落語だけでなく、テレビ番組の司会でも活躍。2012年7月に六代桂文枝を襲名。 ■中西正男(なかにし・まさお) 1974年大阪府生まれ。大学卒業後、デイリースポーツ社に入社。編集局大阪報道部で芸能担当となり、お笑い、落語、宝塚などを取材。2012年9月に同社を退社後、株式会社KOZOクリエイターズに所属し、芸能ジャーナリストに転身。現在、関西の人気番組「おはよう朝日です」に出演中。