古代ローマのトイレ税や欧州のひげ税など、税の歴史とヘンな税、権力者はいつも熱心だった
我が子税(オスマン帝国)
オスマン帝国では、非ムスリムの臣民は最愛のもの、つまり我が子を税として君主に差し出すことを求められた。この制度は、対象となる家々の間で「血で払う税」として恐れられた。 15世紀初めから17世紀の終わりまで、オスマン帝国の支配地域では役人がキリスト教徒の少年たちを定期的に徴集し、イスラム教に改宗させた上でスルタン(君主)に差し出した。 少年たちは、国のために工房や農場、建設現場などで働きながら、5~8年の軍事訓練を受ける。トルコ、アクデニズ大学の歴史学者ギュレイ・イルマズ氏は、「彼らは軍の土台でもありましたし、帝国の行政を担うエリート官僚の大半がこうした少年たちから育成されていました。徴集され、行政官になるための特別な教育を宮殿で受けていたのです」 少なくとも、少年たちは奉仕と引き換えに一種の免税にあずかっていた。「選ばれた少年たちは、健康なクリスチャンの成人男性全員に課せられた人頭税(ジズヤ)を免除されていました」とイルマズ氏は言う。
乳房税(インド)
あらゆる税の中でも最も変わっているのが、インド、ケララ州の君主がかつて行っていた乳房への課税「ムラカラム」だ。下層階級の女性が人前に出る場合、胸を覆いたければ税を払わねばならないという屈辱的な制度で、貧しい女性たちにとって金銭的負担となった。 この「乳房税」が呼び起こした1人の女性の抗議行動は、今や伝説となっている。確かな証拠は乏しいが、彼女の地元である同州チェサラの町では今も頻繁に語られている。約200年前、税を払えなかったナンゲリという女性は乳房税に憤り、自身の両方の乳房を切り落として差し出し、収税吏を仰天させたという。彼女自身はこの傷のため命を落としたが、これがきっかけとなって乳房税はやがて廃止されたと伝わる。
「生涯免税」をかけたアイデアコンペ
インドのマウリヤ朝(紀元前321~185年ごろ)では、アイデアを競う大会が毎年開かれ、優勝者は税を免除された。「政府は、国政に関する問題の解決方法を国民から募っていました」とシャラーチ氏は説明する。「ある人の解決策が選ばれて実施されれば、以後その人は一生税を払う必要がなかったのです」 ギリシャ人の旅行家・著述家のメガステネス(紀元前350~290年ごろ)は、著書「インド誌」で、この制度を驚きをもって記している。 税制改革の取り組みは大抵そうだが、この仕組みも完璧とは程遠かったとシャラーチ氏は指摘する。「この制度の欠陥は、一つの問題を解決したら、さらに解決しようという意欲が起きなかったことです」
マトリクラ・デ・トリブートス(アステカ王国)
15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎えたアステカ王国の富と力の源泉は税収にあった。アステカ王国の徴税システムを研究した歴史家のマイケル・E・スミス氏によって、アステカ王国は、非常に複雑な徴税システムを持ち、統治機構のあらゆるレベルでさまざまな物品が税として納められていたことが明らかになっている。 誰が何を納めたかなど細かく記録が残され、その多くが今も残っている。中でも有名なのが「マトリクラ・デ・トリブートス」という納税記録だ。毎年どれだけのジャガーの毛皮、宝石、トウモロコシ、カカオ、ゴム製のボール、金の延べ棒、ハチミツ、塩、織物が納められたか、色鮮やかな象形文字で描かれている。
文=Editors of National Geographic/訳=高野夏美、三好由美子