映画『拳と祈り―袴田巖の生涯―』、袴田さんと姉・秀子さんの闘いを22年間追い続けた監督を突き動かした衝動
■ 22年前、監督自身もよく知らなかった事件 ――笠井さんと初めてお会いしたのは今から20年くらい前でした。私が名古屋で交通事故に関する講演をしたとき、聴きに来てくださったのですよね。 笠井 そうでしたね。私がまだテレビ局に勤めている頃でした。 ――あの日私は、ずさんな捜査で「死人に口なし」的な処理をされている事案をいくつか取り上げたのですが、講演後の懇親会で笠井さんがおしぼりを強く握りしめながら、「あんな理不尽なことがあるなんて、なんで、なんで! と思いながら聴きました」と、熱く語っておられたんです。第一印象がとても物静かな雰囲気だったので、そのギャップに驚いた記憶が今も残っています。すごく気骨のある方なんだなあと。 笠井 実は私、昔からそうなんですが、印象と行動があまりにも違うとよく言われるんです。一見、ソフトな、女性っぽい人に見られるんですが、ひとりでどこへでも行ってしまうし、どんな環境でもまったく平気。自分の内面の意識と人から見られる印象が乖離しているんですよね。 ――内に秘めるパワーというか、信念というか、本当に強いものをお持ちなんだと思います。今回の作品もこれほど長い年月、ぶれることなく記録を続けられたからこそ完成したわけですが、そもそものきっかけは? 笠井 私が静岡放送で報道記者をしているとき、袴田事件のドキュメンタリーを作ることになりました。2004年のことです。当時、この事件は世の中から見向きもされず、光が当たっていませんでした。私も2002年に静岡県警の記者クラブでレクを聞くまで詳しいことは知らなかったのです。
――まず、何から始められたのですか。 笠井 事件について閲覧できる証拠や裁判資料をひとつひとつあたっていきました。その作業の中で、巖さんが犯行に関わることはどう考えても不可能、つまり本件は無罪だと確信したのです。 獄中で誰にも知られず、明日、死刑が執行されるかもしれないという恐怖の中におられる巖さんのことを思うと、このまま放っておくことはできない、この人のことをもっと知りたいという強い気持ちが湧き上がってきました。 ――それでも、巖さんと直接会うことはできませんでしたよね。 笠井 はい、死刑囚は、基本的には家族と弁護士以外は会えないので。そんな中、巖さんが獄中から家族に手紙を送り続けていたことを知り、ぜひそれを見たいと思いました。そして、秀子さんというお姉さんが浜松市にいらっしゃると聞いて、すぐに会いに行ったのです。 とにかく、巖さんという人の存在に対して、居ても立ってもいられない、そんな気持ちでしたね。 ■ 「釈放されただよ」 ――秀子さんとはそこからのお付き合いなのですね。 笠井 もう22年になります。とにかく、日常の邪魔をせず、ということを最優先に撮影させていただきました。今は、取材者というより、親しい友人のように接していただいています。 ――映画を見ていると、笠井さんがどれほど袴田さんのご家族に信頼されているかがよくわかります。毎月のように東京拘置所へ面会に行く秀子さんの姿、そして、2014年3月、巌さんが47年7カ月ぶりに釈放された日にも、笠井さんはメディアとして唯一、同じ車に乗り、カメラを回しておられましたね。 笠井 あの日は、マスコミに囲まれたり、弁護士たちにもあちこちから電話がかかってきたり、大混乱だったんです。とにかく巖さんを安全なところに移動させることに必死で、嬉しいとか、よかったとか、そんな感慨に浸る余裕はありませんでした。 ただ、ホテルの地下駐車場に着いたとき、秀子さんが巖さんに、「釈放されただよ」と言葉をかけられたときには、2人がこうして、何も隔てるものなく向き合えていることに感動し、それだけで胸がいっぱいになりました。そして、自分はカメラを回さなくっちゃ、そういう気持ちになったことを覚えています。 ――その後も笠井さんのカメラは優しい視線でお2人を記録し続けました。リリースによれば、静岡放送を退社されてから、撮りためた映像は約400時間分に上るそうですね。長年、フリーランスのお立場で、よくぞこうした地道な取材を続けられたと思います。普通はとてもできないことです。 笠井 締め切りがない中、時間も、お金も、自分で賄い続けて、ひたすら投資し続ける、そんな日々でしたが、私にとってそれは苦ではなく、むしろ喜びでした。今となっては、この作品は我が子のような存在です。