【新潟地震60年】直後に策定された“謎の復興計画” 復旧だけでなく高速道にバイパス、緑地化まで、現代描く未来図に…「なぜできた?」検証望む声
1964年6月に新潟県を襲った新潟地震。そのわずか5カ月後の11月に県の復興計画がまとめられた。計画に示された高速道やバイパスなどは時代を経て整備が進み、現在の新潟市の都市機能を支えている。ただ、この復興計画がどのような議論を経て策定されたのかはほとんど明らかになっていない。 新潟地震災害復興計画で示された「災害復興構想図(新潟地区)」 新潟地震の県復興計画は地震から27日後の64年7月、専門家らで組織する「災害復興委員会」で議論が始まり、11月にまとめられた。被害のあったインフラなどの復旧にとどまらず、新潟市の都市化を推し進めるための事業がいくつも盛り込まれた。 計画の一端を示す当時の「災害復興構想図(新潟地区)」には、 新潟バイパスや亀田バイパス、栗ノ木バイパス、高速道路、親松排水機場、鳥屋野潟周辺の公園緑地化などが描かれている。いずれも現在、新潟市の都市機能を支える施設ばかりだ。 復興計画がわずか4カ月という早さで策定されたことを専門家は評価する。 災害史に詳しい横浜都市発展記念館の主任調査研究員、吉田律人さん(44)=新潟市西蒲区出身=は「被災地の早急な再建を促す上で大きな意味があった」と指摘する。 ただ、このスピード策定の経過はほとんど明らかになっていない。吉田さんは計画策定に至る経過を調べたが、県立文書館と県立図書館に保存されている公文書には欠落があったという。復興の中核を担った県の部署は地震から数年後に廃止。新潟市文書館によると、復興を長期的な視点で総括したような資料は、県と市いずれにも見当たらないという。 吉田さんは「地域の歴史を残し、教訓を得る意味でも復興計画の多角的な検証が必要だ」と語る。
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