坂本慎太郎の音楽活動に根付くD.I.Y.精神
音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、坂本慎太郎をゲストに迎えてお届けする。後編では、レーベル移籍~ゆらゆら帝国解散後のソロデビューを中心に語ってもらった。 【動画】坂本慎太郎「君はそう決めた」ミュージックビデオ 取材・文 / 松永良平 撮影 / 相澤心也 ■ ミディからソニーへ ──ゆらゆら帝国のメジャーデビューによってお客さんがどんどん増えて会場が広くなっていくのは望んでいたところではあると思うんですけど、以前のインタビューで、ある時期から、あまりキャパが大きくなりすぎるのもなという思いも出てきたとおっしゃっていました。それはもう少し先の話でしたっけ? そうですね。例えばイベントでも、知り合いがいるようなやつはまだよかったんですけど、メジャー系のアーティストしかいないようなイベントに出るのはキツかったですね。雰囲気が違いすぎて。なので、なるべくそういうオファーは断ってました。でも、今と比べて90年代のイベントは、もうちょっとメジャーとインディーがぐちゃぐちゃだった独特な感じがあったから、それはよかったと思います。僕らもミディに所属してましたけど、それほどメジャーって感じでもなかったですね。 ──制作やクリエイティブ面にレーベル所属のディレクターがほとんど介入しないというのは異例といえば異例ですよね。 ユルかったですね、ミディは。社長の大蔵(博)さんに直談判すれば、大蔵さんのひと声でなんとでもなるところもあったから。 ──大蔵さんは2020年に75歳で亡くなられましたが、ミディの独自性をまさに体現していた方ですね。 ソニーに移籍するかしないかくらいの時期の話なんですけど、友達のジャスティン・サイモン(Mesh-key Records)から「アメリカでゆらゆら帝国のCDをリリースしたい」って相談を受けたんです。そもそも日本のメジャーレーベルってアメリカのインディーズのレーベルとライセンス契約したりしない。あと、当時はCDの値段も日本とアメリカでは全然違った。日本はアルバムのCDが1枚3000円だけどアメリカだったら10ドルとかでしたよね。だから普通に考えたらビジネスとして成り立たなかったんです。だけど、「な・ま・し・び・れ・な・ま・め・ま・い」(2003年にミディからリリースされたライブアルバム)は定価が1000円だから、そのまま並行輸出してもなんとかなるんじゃないかと思ったんです。それで大蔵さんに直談判して、あのCDを卸値で売ってもらい、それをアメリカのジャスティンにそのまま買ってもらおうと思ったんですよ。そのCDに僕がアメリカ用の帯を作って、ジャスティンが向こうで帯を付けて売るという方法で。 ──調べたら、2003年当時は1ドル=120円前後でした。でも、そのやり方なら成り立つかも。 そしたら大蔵さんが、「その程度の金をもらってもしょうがない」って、僕に「な・ま・し・び・れ・な・ま・め・ま・い」を1000枚タダでくれたんですよ。 ──タダで! あれはびっくりしましたね。そもそも「な・ま・し・び・れ・な・ま・め・ま・い」も、僕が「ゆらゆら帝国のしびれ」「ゆらゆら帝国のめまい」(ともに2003年)を2枚同時発売したとき、1枚が3000円して2枚買うと6000円もするから、次は安く出したいんで1500円とかでライブ盤を出したいんですけどって相談したんです。そしたら大蔵さんに「1500円で出すくらいなら1000円にしろ」って言われて。そういう感じでしたね。全然メジャーっぽくない人でした。 ──本当に独特なキャラクターの人ですね。ソニーへの移籍について大蔵さんはどう言ってました? あのときは先に大蔵さんに呼び出されたんです。「会社の景気が悪いから、次の新しいアルバムを出すことはできるけど、宣伝できない」って言われたのかな。逆に大蔵さんから「どうする?」って言われたんです。 ──つまり、移籍する可能性を逆に提示されたようなことですよね。 それでメンバーと話し合って、ディレクターの薮下(晃正)さんが熱心に誘ってくれていたソニーに移りました。だから円満移籍っていうか。大蔵さんから移籍したらどうかと言い出しているから。僕はミディを辞めたかったわけではないし、そのままでも全然よかったんです。 ■ ゆらゆら帝国解散後、自身のレーベルを設立 ──“デビュー”というテーマの話でもう1つ。ゆらゆら帝国の解散後に坂本さんはソロデビューをします。今度は、自分のレコード会社zelone records設立からのデビューという流れでした。それはどういうふうに決めていったんですか? ソロアルバムは作ろうとしていたんですけど、1人で作っていたし、メジャーレーベルから出す気もなかったし、最初から自分で出そうと思ってました。レーベルと流通の両方をやっているブリッジという会社に知ってる人がいたので、その人に流通は頼めるとわかった。なので、インディーレーベルではありますけど、僕がやることは音を完成させてジャケットを作るところまで。ジャケットの入稿データはメジャーのときはデザイナーに仕上げてもらってましたけど、ソロになってからは、がんばれば最後までできるなと思って。ソロで活動を始めた時点ではライブをやる気はなかったし、1人でレーベルもやるのはごくごく自然な流れでしたね。 ──例えばほかのアーティストや知人が1人でレーベルをやっているとか、そういう参考例はありました? 誰かいたかな? 話を聞いて教えてもらうとか、そういう人はいなかったような気がします。 ──初期のzelone recordsは、ママギタァ「MAMAGUITAR SINGS MAMAGUITAR」(2012年)とか、にせんねんもんだい「NISENNENMONDAI EP」(2013年)も出していたから、坂本さん以外にも、いろんなアーティストをどんどん出していくのかなと思っていたんです。つまり、レーベル主宰者としての仕事もしていくのかと。 どうだっけな……面白い人がいたら出してもいいと思っていましたけど、そんなにレーベルをがんばってやっていこうみたいな感じではなかったと思います。 ──自分の作品作りがまず第一にあって、それを出せる場所としてレーベルをスタートさせたということでしょうか。 ママギタァも僕がベースを弾いてPEACE MUSICのレーベルで出すっていう話があったんだけど、「だったらzeloneで出しますよ」って言って、そのまま流れで出した感じですね。 ──ソロデビュー以降は、取材とかも全部自分で管理されているわけですよね。いろいろなことを自分でコントロールできるのはミディでの体験が生きている感じですか? ソニーでもミディでも何も変わってないですね。バンドのメンバーがいなくて全部1人でやってるっていうところは大きく違うけど、ほかはそんなに変わってない。 ──実際に1stシングルの「幽霊の気分で」(2011年)から、レコードの盤とジャケットを組み合わせる作業とかもやっていたんですよね。 ソロになった当時は圧倒的に円高だったからアナログ盤を作って売るのも楽だったんですよ。海外プレスですごく安く作れたから、アナログ盤を作って自分でセットしてリリースするという仕事をカジュアルにできました。最初に「幽霊の気分で」の7inchシングルを作ったときは、1ドルが79円だったんですよ。当時は円高だから定価が1000円でも全然儲けは出ていたんですよね。ジャケットをめちゃくちゃ安く作ってやっていたから全然大丈夫だったんですけど、もう無理ですね。 ──円安の影響で、アナログレコードを製造販売するうえでのハードルがすごく高くなってしまいました。 「幽霊の気分で」はアメリカでプレスしたんですけど、成田空港までハイエースでレコードを取りに行きました。税関に行って、書類を書いて、成田空港の中の貨物倉庫に入って、コンテナで降ろされた7inchを自分でピックアップして。そういう作業も全部自分でやってました。あとはジャケットもレコード用のビニール袋も自分で業者を探して。それをセットして店舗に納品に行ってました。 ──坂本さんが直接お店に納品? マネージャーの藤原(満)さんと2人で手分けして。だけど、1stアルバムの「幻とのつきあい方」(2011年)のレコードはインスト盤との2枚組だったんで、貨物としての量がとんでもなく多かった。なので、あのときはJET SET(京都に拠点を構えるレコードショップ)に税関の手続きを全部やってもらいました。でも、2枚目のシングル「まともがわからない」(2013年)くらいまでは、自分で成田まで行ってましたね。 ──その作業自体が、坂本さんの中ではインディーズ初期にカセットを作ってお店に持ち込んでいたときと実は地続きなんだと思います。 そうですね。カセットを手売りしていたときは家で俺がダビングして、コンビニで印刷したジャケットをハサミで切ってケースにセットしてましたから。発売後にしばらくしたら、お店を回って売り上げを回収して。 ──自分で作ったレーベルでソロデビューしてそこに戻った、というよりは、ずっと変わらないというか。周りで動く人が増えたり減ったり変わったりはしていると思いますけど。 そうですね。変わらないです。当時より楽ですけどね。流通の人がいるから。 ■ ニューヨークでの海外デビュー ──海外公演はゆらゆら帝国時代(2005年~2009年)、ソロ時代(2017年~)と経験がありますけど、ああいう出来事もひとつの“デビュー”と言えますよね。バンド時代と今のソロで行くのとでは随分違うと思いますが。 初めての海外公演はニューヨークだったんですけど(2005年)、ライブはジャスティンがブッキングしてくれました。僕らはもうソニーに移籍していて、清水(利晃)くんがマネージャーから離れていたので、僕が亀川くんと一郎くんを説得して、宿も探して、航空券も取って。泊るところは絶対に個室がよかったんで、それも自分で探しました。あのときは「日本のファンよりもアメリカ人に見せたい」とジャスティンが言っていて、日本人のお客さんがなるべく来ないように、情報を出すメディアとかを絞ったんです。向こうの日系新聞が宣伝してくれるって言ってるのをやめさせたりとか。会場もけっこう小さいライブハウスで、当時の僕らにしては小さいところでやったんですけど、そのあたりもジャスティンがすごく考えてくれたんです。 ──なるべくアメリカ人に初めての体験をさせたいっていう。 それでも日本のお客さんはいっぱいいたと思いますけどね。でも、海外公演なのに日本人の客ばっかりっていう状況にならないように考えていたと思います。例えば、アザーミュージック(ニューヨークのレコードショップ)とかキムズビデオ(アンダーグラウンドな品揃えで知られるビデオショップ)周辺の人たちに僕らを見せようとしていましたね。 ──近年のソロでの海外ライブでも、初めてのお客さんがいる場所や国でやるライブは特別な意識をしたりしますか? 同じことをやるだけですね。前は誰も知らないところでゼロからやっていたけど、今はサブスクの影響だったり、最初からみんな僕の曲をよく知ってるじゃないですか。あまり日本でやるのと変わらないですね。場所ごとに反応が違うのは面白いですけどね。一緒に歌ったりする感じもありますし。 ──2024年3月にインドネシアのバリ島で開催された「Joyland Festival」での演奏でも、現地の若いお客さんたちがすごく歌ってましたね。バンドマンの人生として、自分のパターンは珍しいと感じることはありますか? バンドがあってソロがあってという経験を重ねてきて、このキャリアで初めて行く国に行って演奏する機会が今も続いているという。 この年齢で海外にちょこちょこ行く人がそんなにいないってことですか? ──坂本さんにとっては、演奏そのものはいつもと変わらないとしても、初めて観るお客さんの前でライブをする機会が続いているのはすごいことだなと感じます。 そうなのかな。そういう考え方をしたことなかった。でも、いまだに外国に呼ばれて演奏しに行けるというのはいいですけどね。今のバンドメンバーも喜んでくれるし、みんな行きたいみたいだし。この状況をわりと楽しんでやってくれてるから。 ──この先もいろんな国や土地で“デビュー”してほしいです。 そうですね。行けるといいですけど。 ■ 坂本慎太郎(サカモトシンタロウ) 1989年に結成したゆらゆら帝国でボーカルとギターを担当。バンドは10枚のスタジオアルバムや2枚組ベストアルバムなどを発売後2010年に解散した。翌2011年に自主レーベル・zelone recordsを設立しソロ名義での1stアルバム「幻とのつきあい方」をリリース。2013年にシングル「まともがわからない」、2014年に2ndアルバム「ナマで踊ろう」、2016年に3rdアルバム「できれば愛を」を発表した。2017年にドイツ・ケルンで開催されたイベント「Week-End Festival #7」で初のソロライブを実施し、2018年1月には東京・LIQUIDROOMで国内初となるソロでのワンマンライブを開催した。2022年6月に約6年ぶりとなる最新アルバム「物語のように(Like A Fable)」を発表した。また自身の制作のほかにも、さまざまなアーティストへの楽曲提供やアートワークの提供など、その活動は多岐に渡る。 ■ 松永良平 1968年、熊本県生まれの音楽ライター。大学時代よりレコード店に勤務し、大学卒業後、友人たちと立ち上げた音楽雑誌「リズム&ペンシル」がきっかけで執筆活動を開始。現在もレコード店勤務の傍ら、雑誌 / Webを中心に執筆活動を行っている。著書に「20世紀グレーテスト・ヒッツ」(音楽出版社)、「僕の平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)がある。