監督からも「野球と勉強、どっちが大事なんだ」と言われ…大学准教授に転身の元・楽天ドラ4選手が「絶対に戻りたくない」“超ハード”だった大学生活
朝6時半から分刻みのスケジュール…厳しい文武両道
主な1日のスケジュールはこうだった。 朝は遅くとも6時半には起床。そこから掃除、朝食を済ませて9時前からグラウンドで練習が始まる。15時半に終了してからユニフォームなどの洗濯、入浴、食事を済ませ、16時半までに調布(当時)の寮を出発しなければ、御茶ノ水にある校舎で17時半から開始される二部の授業に間に合わない。1日で最大の3限目まで受けるとなると、学校を出る頃には22時で、夕食を済ませて帰ろうものならば寮の門限である23時半までには間に合わない。そのため、食事は通学時におにぎりなどを買っておき学校で食べた。 西谷が「二度とやりたくない」と嘆くほど慌ただしい分刻みのスケジュール。当然のことながら自主練習の時間など確保できるわけがない。 そんなハードな環境下で西谷は1年生の春からレギュラーを掴んだ。そして、東京六大学リーグで4割1分7厘のハイアベレージをマークしてベストナインに選ばれたのである。 西谷が言うには、この好成績の裏にはちょっとした“カラクリ”があったのだという。 「私が1年生だった2001年は、3年生に早稲田の和田(毅)さん、立教の上重(聡)さんとか、“松坂世代”の錚々たるピッチャーがいたんですね。正直、とてもじゃないけど打てませんでした」 バットにボールが当たったとしても、前に飛ばない。そんななかで、なんとか必死に自分が結果を出せる方法を導き出した。 「『ボールを見極め、きわどいコースをファウルでカットできるようにしよう』と、その練習ばかりしていました。結果として、フォアボールや送りバントなどで打数が減って、少ない打数でたまたまヒットを打てたことで数字を残せただけなんです」 表向きには堂々のデビュー。だとしても、西谷は野球に舵を切ることをせず、それまで通りタイトな日常を過ごした。
先輩や監督は「野球と勉強、どっちが大事なんだ!」
西谷の生活は、体育会に身を捧げる者たちからすれば異端でしかなかった。 「お前、そんな生活しててすごいな」と言ってくれるチームメートもいたが少数で、否定的で冷ややかな評価が多かった。リーグ戦で敗戦し、チームが「これからグラウンドで練習だ」と息巻いているなか、自分だけ「授業があるんで」と学業を優先する。 「お前は野球と勉強と、どっちが大事なんだ!」 先輩のみならず、指導者の川口啓太からも咎められる場面は数えきれないほどあった。 人は同調圧力に屈しやすい。明治大野球部のような、常にリーグ優勝や全国大会での日本一を目指しているチームならなおさらだ。 だが、西谷は折れなかった。それは、「教員免許を取得する」という不変の目的もあるが、実はベストナインを獲得した1年春のリーグ戦にも起因しているのだと漏らす。 「当時は誰にも言えなかったんですけど、最初にあれだけレベルの高い選手を見たことで、『野球では大成しないだろう』と思ったんです。よくよく振り返ると、野球で上に行ける自信がなかったんでしょうね。だから、今まで通り野球は一生懸命に頑張るけど、『ちゃんと勉強もして手堅く教員免許を取るよ』と思うようになっていきましたね」 西谷に限って言えば、この胸の内と妥協はイコールではなかった。100%の気概で文武両道をこなすことで、その行動に説得力と周囲からの信頼も生まれた。 チーム内で冷笑の対象とされてきた西谷は、4年になるとキャプテンとなった。 絶対エースでありながら、プライベートで羽目を外しがちだった同学年の一場靖弘に、「遊ぶな」ではなく「登板日はこの日だから、そこにちゃんと照準を合わせてくれよ」とゆとりを持たせながら導くなど、人によって手綱さばきを変えることで求心力を発揮した。プレーヤーとしても、2度目のベストナインを獲得しチームを春季リーグ優勝へと導いた西谷は日米大学野球の代表選手に選出され、全日本でもキャプテンに任命されたのである。 1年春の衝撃から「上には行けないだろう」と思っていた西谷が、「プロに行けるのかな?」と手応えを感じ始めたのは、大学日本代表に選ばれたことが大きかったのだという。 ただ、現実問題として「無理じゃないか」と半信半疑でもあった。 春季リーグ戦から全日本大学野球選手権、日米大学野球と試合に出ずっぱりだったことが災いし、西谷は右ひじを故障してしまったのである。その症状は食事の際に箸を持つ右手でご飯を口元まで運べないほどで、辛そうな西谷を見かねた監督の川口から「社会人で野球をやってから指導者になれ」と促されたほどだった。 4年生となったこの時点で、卒業に必要な単位はすでに満たしていた。だからといって、せっかく掴んだプロへの可能性をむざむざと手放したくない自分もいたと、西谷は言う。 「やっぱり、プロ野球選手に憧れて野球を始めたこともありましたし、本当に大学は充実し過ぎたと思えるくらいにやり切ることができたんですね。プロになれるチャンスは滅多にないわけですし、『1年で終わってもいい』くらいの覚悟でずっとやってきましたから」
4年秋にもベストナイン…それでも「ドラフト指名はない」?
大学最終年となる4年秋のリーグ戦。西谷は満身創痍の状態ながらも、春に続き3度目のベストナインに選出された。 結果は残したが、西谷の心は変わらず懐疑的だった。プロのスカウトの目には、スローイングをはじめとしたパフォーマンスがそれまでの自分ではないと判断されているだろうし、おそらくドラフトでの指名はない――半ば諦めの境地だったという。 そんな悲観的な憶測は杞憂に終わる。 2004年のドラフト会議。西谷はこの年からプロ野球に新規参入を果たした楽天から4巡目で指名を受けたのである。 <次回へつづく>
(「野球クロスロード」田口元義 = 文)
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