「朝日新聞問題」を考える ~ ジャーナリズムの質を担保するのは誰か 橋爪大三郎(社会学者)
朝日新聞は、戦後日本の良識を代表する新聞、ということになっていた。 その「良識」とは、新聞社が組織をあげてことあるごとに「左」っぽい政治的雰囲気をかもし出すことだったのではないか。 業界では古い写真が必要な場合は、毎日新聞に借りに行くのだという。朝日新聞は終戦のときに写真をみんな燃やしてしまったから、だそうだ。このことの真偽を確かめたわけではない。けれども、それまで戦争の旗振り役だった朝日新聞が、敗戦を機に、それまでの報道姿勢を深刻に反省せざるをえなかった、と広く信じられている。 学生運動で逮捕歴などがあったとしても、朝日新聞なら採用してもらえるかも、とマスコミ志望の友人がその昔、話していた。これも、真偽はわからない。けれども、そんなタイプの学生たちが朝日新聞を志望したのも確かだと思われる。 朝日新聞は戦争を反省するのに、間違ったやり方で反省してしまったのだと思う。 新聞報道は、どうしても政治的効果をもつ。どういう政治的効果をもつかに関係なく、真実を報道すべきである。政治的効果をもたせるための、報道ではいけない。政治の意思決定を行なうのは国民である。新聞報道は、国民に対して、その材料を提供することに徹するべきである。
「慰安婦」報道の誤報が明らかになった。 誤報の原因はなにか。「望ましい」政治的効果をもつとよいと期待するあまり、報道が「真実」であるかの検証がおろそかになったのであろう。記者も人間であるから、ヒューマンエラー(誤報)はありうる。朝日新聞という組織は、それを増幅してしまったのである。 朝日新聞は組織として、誤報を反省しているようである。もっと早く反省すべきだったとか、反省がまだ足りないとかいう声もある。組織が「反省」すると、ろくなことがないと私は思う。組織が「反省」するとは、現場の記者をもっと監督する、ということだからだ。 ジャーナリズムの神髄は、政治(的効果)/真実、の分離にある。政治(的効果)を差し置いて、真実を報道する。そのことを担保するのは、一人ひとりの記者(ジャーナリスト)の職業倫理である。それ以外にはありえない。チェックがあるとすれば、現場の記者と担当デスク(先輩記者)の相互チェックが必要かつ十分であろう。そのチェックのメカニズムがちゃんと働くように、組織は出しゃばらないのがよい。 かつての朝日新聞は、戦争をあおる政治的効果を、よいと思っていた。戦後の朝日新聞は、それを反省して、その反対の政治的効果を、よいと思うようになった。そういうことなら、朝日新聞という組織は、あるだけ邪魔である。朝日新聞の「反省」は、「朝日新聞が組織としてどうか存続できますように」である。そんなことは知らないよ、と国民は言うだろう。 日本の企業の例にもれず、朝日新聞も、新卒の学生をまとめて採用し、社で訓練して、記者に育てる。このやり方では、記者より先に、サラリーマンが育ってしまう。記者の職業倫理よりも、組織の論理を優先させるかもしれない。 もしも朝日新聞から相談を受けたら、私はこう答えるだろう。大事なことは、シャーナリズムの原点に戻ること。すなわち、政治(的効果)/真実、を分離することです。記者がその職能を最大限に発揮できるようにする。粘り強い持続的な取材をして、プロ意識の高い記者が質の高い記事を書き、紙面を構成する。それをやるには、朝日新聞は図体が大きすぎます。都道府県ごとの地方紙に分かれたらどうですか。講読料ももっと安くすべきです。全国紙は、発行部数二十万部程度でよい。そして、地方紙で頭角を現したすぐれた記者だけを集めます。誤報を機会に「解体的出直し」をはかるなら、これしかないのではありませんか。 ------------ 橋爪大三郎 (はしづめ・だいさぶろう) 社会学者。現在、東京工業大学名誉教授。元東京工業大学世界文明センター副センター長。理論社会学、現代アジア研究、比較宗教学、日本プレ近代思想研究など、幅広い領域で活躍。著書に『国家緊急権』(NHKブックス)、『労働者の味方マルクス』(現代書館)ほか多数。