【霞む最終処分】(14)第2部「変わりゆく古里」 生きた証し守る闘い 環境省の姿勢に嫌気
「今でこそ、ぼろ家だけど古里に変わりはない。自分が生きてきた証しだ」。大熊、双葉両町の地権者有志でつくる「30年中間貯蔵施設地権者会」顧問の門馬幸治(69)=相馬市に避難=は、自宅の写真を見つめた。大熊町夫沢の生家は東京電力福島第1原発の敷地境界から200メートルほどしか離れていない。あるじなき母屋はイノシシに踏み荒らされ、松やツツジなどの庭木は見る影もない。 ◇ ◇ 門馬は1954(昭和29)年、兼業農家の長男として生まれた。のちに福島第1原発が立地する場所には旧日本軍の飛行訓練場跡地があった。周辺を友人と駆け、山でキノコを採り、川で水浴びをした。 昭和40年代に入ると大型トラックやダンプカーが連日、砂ぼこりを巻き上げ自宅近くを行き来した。何か大きな建物ができる―。少し後に原発と聞き、真っ先に「鉄腕アトム」が頭に浮かんだ。どこか近未来で、明るい希望を抱いた。 高校卒業後、地元で公務員として働きながら父から譲り受けた土地を守ってきた。2人の子宝に恵まれ、何不自由ない暮らしが続いた。2011(平成23)年の東日本大震災と原発事故に襲われるまでは。
◇ ◇ 全町避難に伴い、会津若松市の仮設住宅に身を寄せた。この年の12月、政府は原発事故に伴う除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設を双葉郡に整備する意向を表明した。門馬は「自分の家も施設内に入るかもしれない」と胸騒ぎを覚えた。 候補地は最終的に大熊、双葉の2町に絞り込まれ、予感は現実になった。環境省は2014年5~6月にかけて中間貯蔵施設に関する住民説明会を県内外で16回開いた。門馬は3回ほど足を運び、職員に「自分たちの土地はどうなる」「土地価格の補償内容は」などと質問をぶつけたが、「(補償は)十分に行います」などの回答にとどまった。専門用語ばかりを並べる説明に嫌気が差してきた。 中間貯蔵施設の整備に反対するつもりはない。復興を進めるには、誰かが引き受けなければならないと理解している。ただ、住民に寄り添っているとは言いがたい環境省の姿勢に暗澹(あんたん)たる思いだけが残った。
説明会後、同郷の男性が話しかけてきた。行政区長を経験した地域の顔役とも言える人物だった。「個人では国に言い負かされちまう。団結して話し合った方が良い」。それまで門馬には団体交渉という考えはなかったが、住民の権利を守る突破口に思えた。「やりましょう」とうなずいた。生きた証しを守るための闘いが始まった。(敬称略)