《安室、SPEED、DA PUMPを輩出》「親父はヒロポンを打ちながら…」マキノ正幸さん(享年83)が語っていた“辛い少年時代”
高等部3年の夏が終わり、野球に区切りをつけると、野沢さんにボウリングを教わる一方、実家を出て、麻布十番のマンションで一人暮らしを始めた。 僕は島耕二さんとうまくいかなくてねえ。当たり前だよ、自分の親父ともうまくいかないんだから(笑)。家を出る理由はいくらでもあった。 マンションといっても木造でした。当時の金額で家賃は月10万円ぐらいで、当然、おふくろが出してくれた。小遣いもいくらでもくれました。 ボウリングがブームになり始める頃です。加奈子に教えてもらって、「あ、これなら俺、トップになれるな」と思った(笑)。僕、身体は小さかったけれど、バランスがいいんです。加奈子はプロの世界に進んで、結局、別れることになりましたが、ボウリングを通してつきあいは続いたんです。
会員制ジャズクラブ開店。「毎晩お金をどこにしまおうかと困るくらい儲かった」
青山学院大学経済学部に進むと、野球とボウリングの両方で活躍する。卒業を控えても、就職活動をする気にすらならなかった。 この頃、「ケメコ」の愛称で親しまれてのちに一世を風靡するジャズ歌手の笠井紀美子さんと交際していた。 ケメコが歌う店を作ろうと思って、ジャズピアニストの世良譲(ゆずる)も呼んで、六本木の交差点のそばにマックス・ホールという会員制ジャズクラブを出しました。開店資金は、おふくろに500万円ほど借りてね。富司純子さん、堺正章さん、沢田研二さんといった有名芸能人もお客になってくれて、毎晩お金をどこにしまおうかと困るくらい儲かった。
そのころは三田のマンションでケメコと暮らしていました。2年間ぐらいかな。でもね、なんとなく「ケメコは結婚する相手じゃないな」と考えている僕のずるさがあった。のちに彼女は渡米して、さらに成功を収めたから、それでよかったんでしょう。
母が49歳の若さで他界。つつじヶ丘の豪邸を相続し、20代で馬主に
1967年、母が49歳の若さで他界する。その翌年、27歳のとき、結婚。長男、長女が誕生する。 ボウリングセンターで、かわいい子を見つけて、一緒に投げたんです。加奈子に内緒でその子とつきあうようになりました。おふくろの葬式で、加奈子、ケメコ、その子の3人がかち合っちゃった(苦笑)。九段の有名な司法書士の娘で、この子と結婚する、という予感がありました。結婚式の司会をしたのが大橋巨泉です。 おふくろは亡くなる直前に島さんと離婚していたので、つつじヶ丘の豪邸は僕が相続しました。その頃の僕は、好きな競馬のことしか頭になかった。馬が買いたい一心で、つつじヶ丘の駅前の不動産屋に飛び込んで、家の敷地のうちの400坪ほどを売ったんです。おふくろが三橋さんから買ったときは1坪3万円くらいだったのが、このときは35万円になっていました。 馬を探しに北海道の日高まで出かけて、大橋巨泉と赤坂プリンスホテルで毎日のように、馬について、あれこれと話し合っていましたね。20代で馬主になりました。 (取材・構成 樽谷哲也) 「1週間後にはすべての先輩を差し置いて…」生前のマキノ正幸さん(享年83)が明かしていた安室奈美恵への想い「僕の原点です」 へ続く
「週刊文春」編集部/週刊文春 2018年12月20日号