JR SKISKIも“バブル推し”? 本物のバブルはただの好景気と比にならない
1986年から91年までの株式、不動産を中心とした資産の高騰、経済拡大期が「バブル期」
一般的には、バブル景気は1985年9月にニューヨークのプラザホテルで行なわれた5G(5ヵ国蔵相会議)に端を発するといわれる。先進各国が為替レート安定化に関する合意を行った、いわゆる「プラザ合意」だ。その後、各国の協調介入がなされドル相場はいったん安定したが、国内では日銀の市場調節政策「高目放置」によって円高への動きが急速に進み、バブル経済へと突入していく。1986年から91年までの株式、不動産を中心とした資産の高騰、経済拡大期をバブル期と呼び、銀行が多額の融資を行いインフレを引き起こした。しかしバブルを膨らませた銀行融資も、1990年3月に当時の大蔵省が行政指導を行い、不動産業界を対象とする融資総量規制にストップがかかると、直ちに終焉を迎えた。 ピークとされるのは、1989年12月に日経平均株価が3万8915円という高値をつけた辺り。87年から91年にかけて公開された「私をスキーに連れてって」をはじめとするホイチョイ3部作は、まさにバブルを象徴するような映画といえるのだ。
実際に肌で感じた「バブル」はもっと浮ついていた
私事で恐縮だが、バブル夜明け前ともいえる80年代半ば、筆者は当時収益トップクラスの某都市銀行で働いていた経験がある。20代の若者で、自分自身はさほどバブルの恩恵にあずかった実感があるわけではなかったものの、振り返ってみればやはり独特の体験をしたような気がする。街や生活のそこかしこにどこか浮ついたような雰囲気があった。 銀行のロッカーには遊び用にDCブランドのソフトスーツを常備しておいて、終業時間になるなりランチ時に誘い合わせた同僚たちと着替えて、ディスコなど夜の遊び場へ出かけた。 とくにファッションにこだわっていたわけでもないのに、シャツは1万円以下のものは買わなかったし、ネクタイは1カ月ローテーションしきれないぐらい持っていた。いや、自慢ではない。男性の同僚の間で、「そのネクタイどこの? いいじゃない」と、おしゃれ好きなOLのような会話が普通にかわされていて、そんな手前、ある程度格好をつけておかないと職場にいられないような雰囲気があったのだ。 仕事帰りに友人と待ち合わせてスカッシュを楽しんだと思ったら、その友人から高価な男性化粧品とエステに通うことを勧められたり、なんてこともあった。 自宅に帰れば頼んだ記憶のないクレジットカードが、いったいちゃんと与信審査しているのだろうか、一方的に届いて、使わない場合は破棄してくれ、と書いてあった。 マンションを借りる際には、「保証人の書類はいつでもいいですから」と不動産屋にいわれた。 残業も当たり前だったが、まだ急げば終電に間に合う程度の時刻に、上司からはタクシー会社に電話をかけるよう促され、4、5回呼び出し音が鳴ってもつながらなければハイヤーを呼んで帰宅するように指示された。 「客が靴の裏をなめろといえば本当になめてでも預金を取ってこい」「この世には命よりも大事なものが一つだけある。それはカネだ」……まるで何かのテレビドラマのセリフのようだが、何の脚色もない、当時の上司から実際に聞いた言葉だ。耳にこびりついて離れない。 やはりどこか、ボタンを掛け違えたような時代だったのかもしれない。しかし現在は、そんなバブル期の、ひたすらキラキラしたきらびやかな面、陽の部分だけが懐かしまれる対象になって、独り歩きしているようにも見える。美しい薔薇には棘があるというが、バブル崩壊後に設備投資と雇用と不良債権の3つの過剰がデメリットとして表面化するなど、実際には負の部分も多々あったはずなのだが……。
もしかして、今では「バブル」はファッションなのか?
いまやバブルはファッションになったのだろう。JRの駅構内に掲出された「私を新幹線でスキーに連れてって」のポスターを眺めながら、そんなふうに感じた。 ちなみにJR東日本広報によると、来年度以降のキャンペーンについては内容は何も決まっていないそうだ。「若手女優を起用するのかどうかなど、まったく未定です。今後の検討次第でどうなるかはわかりません」とのことだった。 (取材・文・写真:志和浩司)