ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (59) 外山脩
この北パラナで英国系の──現代風に表現すれば──ディベロッパー北パラナ開発会社が、百数十万㌶規模の原生林を開発中であった。 南米土地は、その一部を購入した。 この地方では、鉄道はサンパウロ──パラナ線が敷設中であった。が、オウリーニョスからカンバラーまでしか通じていず、入手した土地は、そこから一〇〇㌔西方に在った。 南米土地は、この土地の一割を鉄道会社に提供、代わりに「線路を自社の所有地を貫通して敷設し駅を二カ所設置する」様に交渉、了解をとった後に所有地の八割を分譲、残りは直営農場とする。 同じ一九二六年、大阪の野村財閥が、やはり北パラナに一、五〇〇㌶の土地を購入した。場所は(後に設けられる)バンデイランテス駅の近くである。土地は原生林で蔽われており、それを伐り拓いてカフェーを植えた。 翌一九二七年、三菱財閥の社主岩崎家が所有する東山農事㈱(本社=東京)が、カンピーナスでファゼンダを購入した。三、七〇〇㌶。 ここは、歴史も古く名の知られた大農場であった。 東山のブラジル投資を決めたのは、三菱財閥の中枢、三菱合資会社の三代目社長を務めた岩崎久彌である。ただし、その時点では三菱を退き、東山に情熱を注いでいた。 普通、三菱というと、創業者の岩崎彌太郎がよく知られているが、彼は一八八五(明18)年に没している。その事業は海運業が主であった。 以後、後継者たちは、基幹産業のあらゆる分野へ手を広げて行った。三代目の久彌(彌太郎の長男)の在任中は、日清、日露の両戦役、第一次世界大戦があり、特需により三菱は拡大に次ぐ拡大を続けた。 在任中、久彌は並々ならぬ経営手腕を発揮したが、この人を、より特徴づけるのは、以後の生き方であろう。 一九一六(大5)年、経営者としては脂が乗り、しかも社運隆々たる時期に、三菱の総帥の地位を退いた。五十歳だった。 その後経営したのが東山である。本社は東京の丸の内に置いた。煉瓦造りの豪華な建築物であった。(今も保存されているという) 同じ岩崎家の事業なのに、三菱とは別に東山という会社を創ったのは、三菱は営利事業であるのに対して、東山は社会奉仕を眼目としたことによる。農牧林業を主に、短期間では採算に乗りにくい事業を手掛け、その成果を社会に還元した。 「東山」とは、初代彌太郎の号であるが、東山農事の創立と経営は、久彌独自の理念によるものであった。青年時代に米国に留学して以来、胸中で育んできた理想の実践だった。 東山は発足時、それまで三菱あるいは岩崎家が管理していた農牧林業を継承した。 後に東南アジア各地へ、事業を広めて行く。 南米には一九二一(大10)年から人を派遣し、調査を進めていた。その上で、三菱系企業の重役で後に東山の社長になる坂本正治が南米を視察、帰国して、ブラジルで事業を起こすことを久彌に進言した。 その結果が一九二七年のカンピーナスのファゼンダ買収であるが、さらに翌年、セントラル線ピンダモニャンガーバに六、二七〇㌶の土地を取得した。 両農場を「ファゼンダ・モンテ・デステ」と命名した。「東山農場」のポルトガル語訳である。カフェー栽培を主に米作なども営んだ。 この東山農場の場長は、買収以前からブラジル入りしていた山本喜誉司という東京帝大出の農学士が担当した。 東山はこのほか、カフェーの委託販売を業務とする商社を一九二八年、サントスに設立している。後のカーザ東山である。こちらは水上不二夫という派遣社員が代表を務めた。 これらの事業を統括する立場で、一九二九年に着任したのが君塚慎である。東京本社の取締役で四十歳近かった。山本、水上よりやや年長であった。 この体制下、東山は事業を拡張した。 一九三三年、カーザ・バンカリア東山を設立。カーザ・バンカリアというのは、小さな銀行のことである。 日系社会では、初の銀行部門への進出だった。カーザ東山のカフェー取引の便宜のためで、最初は本店をサントスに置き、支店をノロエステ線初め、日本移民が多く入植した鉄道の沿線に設置した。(本店は、後にサンパウロへ移転)