文化もレベルも全てが違う中国のプロ野球選手たち。松岡功祐が彼らの指導にあたって心に決めた大切な事は?
住環境も十分とは言い難かった。 「僕の部屋は2階にあったんです。3階に女子ソフトボールの選手たちがいました。僕がひとりで使うのと同じ広さの部屋に、彼女たちは14人で住んでたんです。そう考えると、僕はものすごく優遇されていたのだと思います」 自分の主張を明確にしなければ、何も対処してくれないということにも気づいた。 「中国の3月はまだ寒いんですが、ある日を境にストーブが片づけられます。何枚もジャージとかジャンパーとかを着たうえで布団をかぶって寝ても、それでも寒い。1週間我慢してから『寒すぎるからどうにかしてくれ』と言ったら、すぐにストーブを出してくれました。 つまり、要求しさえすればやってくれる。逆に言えば、要求しない限りそのままなんですね。そういうことも初めて知りました。日本だと、先回りしていろいろやってくれるから、それが当たり前だと思ってしまいますけど」 チーム内で共通していたのは、「練習時間=仕事」という考え方だった。この考え方は日本ではなじまない。 「朝の8時30分に練習はスタート。12時から13時までのお昼休憩を挟んで、17時まで続きます。監督はいちいちうるさいことを言うし、練習がとにかく長い。でも、練習時間=仕事なんですね、彼らにとっては。つまりその代わり、17時にはきっちり終わります」 ■目線を下げれば伝わり方が違ってくる 日本のプロ野球選手よりもレベルの低い選手たちに、松岡は根気強く指導を行った。 「大事なのは、彼らのところまで降りていくこと。目線を下げることで伝わり方が違ってくる。日本のプロ野球選手と比べたらできないことばかりで、未熟なところが目立ちます」 それでも彼らには野球で身を立てようというハングリーさがあった。松岡が打つノックを受けながら上達していった。 その年の開幕戦で、天津ライオンズの選手たちが6つのダブルプレーを記録した。 「27アウトのうち、12個がダブルプレーだった。新記録だったらしく、翌日の新聞に大きく取り上げられました。内野守備が素晴らしかったと褒めてもらいました(笑)」 そして天津ライオンズは2008年に中国シリーズを制した。 「メジャーリーグや日本のプロ野球みたいに、優勝するとシャンパンかけをするんです。あれは楽しかったなあ。環境やレベルは違っても、選手たちには『うまくなりたい』という気持ちがあります。同じ気持ちで野球に取り組めば、自然と仲良くなれるものです。以前はよく『また中国に来て野球を教えて』とみんなから連絡が来ましたよ」 人は誰でも年をとっていく。年々、若い選手たちとの差が開いていくことに気づかない指導者も多い。 「僕は中国選手でも、日本の若い選手でも、どちらも自分から話しかけていきます。こちらから相手に近づいていくことで関係は近く、深くなりますから」 中国で3年間の指導を終えた松岡に、古巣から誘いの声がかかった。67歳のベテランコーチは、今度はなんと古巣・明治大学野球部の寮に住むことになる。 第11回へつづく。次回配信は2024年5月4日(土)を予定しております。 ■松岡功祐(まつおかこうすけ)1943年、熊本県生まれ。三冠王・村上宗隆の母校である九州学院高から明治大、社会人野球のサッポロビールを経て、1966年ドラフト会議で大洋ホエールズから1位指名を受けプロ野球入り。11年間プレーしたのち、1977年に現役引退(通算800試合出場、358安打、通算打率.229)。その後、大洋のスコアラー、コーチをつとめたあと、1990年にスカウト転身。2007年に横浜退団後は、中国の天津ライオンズ、明治大学、中日ドラゴンズでコーチを続け、明大時代の4年間で20人の選手をプロ野球に送り出した(ドラフト1位が5人)。中日時代には選手寮・昇竜館の館長もつとめた。独立リーグの熊本サラマンダーズ総合コーチを経て、80歳になった今も佼成学園野球部コーチとしてノックバットを振っている。 取材・文/元永知宏