【アリ・アスター監督作】死への恐怖から童貞のまま生きてきた中年が“毒母”の束縛から逃れようともがく…ホアキン・フェニックスの人生と重なる自由への渇望
『ボーはおそれている』はどんなストーリーなのか?
まず、『ボーはおそれている』のストーリーを紹介しておかないと、話が先に進まない。 ただし、ここで述べるストーリーのあらすじは、あくまでも表面的に映像としてわれわれ観客が目にすることになるものを整理しただけで、実際にはそれが現実なのか、ボーの妄想の中の世界なのかはわからないというのが実際的なところだ。 ボーは髪の毛も薄くなった独身の中年男だが、仕事をしている風でもなく、母親名義のクレジットカードを持ち、スラム街のような治安の悪い都会のアパートの一室に住み、定期的に精神分析医にかかっている。 母親は不動産開発の大きな会社の会長で、子供のころのボーはそんな母と高級リゾート地で過ごすような恵まれた生活をおくっていたが、思春期の彼に対して、母は「あなたは父親同様セックスでエクスタシーに達すると死んでしまう血筋だ」と言われ、死への恐怖からいまだに一度もセックスをしていない。 ある日、誕生日を祝いにきなさい、と電話をしてきたばかりの母親が死んだという報せの電話がかかり、ボーは葬儀に出席するために家を出るものの、車にはねられて怪我をし、その車を運転していたグレイスの自宅で、思春期の娘の部屋をあてがわれ看護される。 しかし、グレイスの夫ロジャーを含め、一家は彼を軟禁状態に置こうとし、監視カメラで行動を監視していたため、ボーはなんとか逃げ出して森にさまよい込む。 森では演劇集団が不思議な生活スタイルで暮らしており、客人であるボーは、その芝居を見ながら自分の人生と重ね合わせ、別の人生の自分を夢想するようになる。 ようやく母親の邸宅に着いたときに既にその葬儀は終わっていたが、そこでボーは子どものころに出会った初恋の人で、今は母親の会社で働いていたエレインと再会する。そして、ボーは初めてのセックスをするが……。
子供の人生を支配しようとする“毒母”というテーマ
ボーの母親であるモナ役はベテラン女優パティ・ルポーンが演じているが、この母親の存在を軸に物語を考えてみると、実は母親による支配の中でもがき苦しみ、精神に変調をきたして現実と妄想の区別がつかなくなったボーのみに見えている世界のようにも思えてくる。 こういった子供を支配しようとする“毒母”というのは、古くは大女優グロリア・スワンソンの娘が出版した暴露本に基づいた『愛と憎しみの伝説』(1981)から、最近では長澤まさみがお金のために息子を使って両親(息子にとっては祖父母)を殺させる役を熱演した『MOTHET/マザー』(2020)まで、多くの映画のテーマになってきた。 また、経済的に圧倒的に優位な立場から、すでに中年になった息子の人生に対していつまでも干渉する母親と、次第に現実と妄想の区別がつかなくなる主人公ということだと、テリー・ギリアム監督がジョージ・オーウェル的なディストピア世界を描いた怪作『未来世紀ブラジル』(1985)が、まさしくそうで、本作に最も近い立ち位置の作品だろう。 こうした、強い“毒母”の手枷から逃れようともがく主人公にとって、物語を通じて父親が“不在”となっていることが気になる。森の演劇集団が演じる芝居を見ていたボーは、いつの間にかその物語の主人公となっているが、この人物は生き別れになった家族を長年探し続けているうちに老人になってしまう。 そして、その劇中劇の最後に、とうとう主人公は青年となった三人の息子たちと巡り合ったところで現実にもどるが、この父と息子たちの物語はボーの願望のあらわれ以外の何物でもないだろう。