小室哲哉が90年代に直面した「ミリオンセラーの壁」…B'zの大ヒットから考えた「ひとつの答え」
小室哲哉はなぜ空前のムーヴメントを起こせたのか? それは、80年代~90年代初頭、大ブレイク前夜の小室が「楽曲提供のチャンス」と「TM NETWORK」を通じて「人々が振り向く音楽とは何か」を学び積み重ねた成果だった――。 【写真】米津玄師、あいみょん…国民的ヒットと日本の難題 TRF、篠原涼子、H Jungle with t、華原朋美、globe、安室奈美恵……。ミリオン20曲を軸に「ヒットの秘策」を聞き出す渾身の一冊『WOWとYeah 小室哲哉 起こせよ、ムーヴメント』より特別公開します。
ミリオンセラーとギターの壁
TMとして、ソロとして、さらにはプロデュース活動まで手掛けだした小室は着実にキャリアを積み上げていった。この年には楽曲提供した作品をセルフカバーしたアルバム『Hit Factory』も発表する。 その一方で小室の前に「大きな壁」が立ちはだかった。「ミリオンセラー」である。 時代が1980年代から1990年代へ、昭和から平成へと移行するなか、日本の音楽シーンには大きな変化が起きていた。 まず、音楽のフォーマットがアナログレコードからCDへと本格的に変わった。1988年、アルバムのセールスでCDがレコードを逆転したことを境に、1989年からは、レコードは製作されず、CDのみ販売される形が主流になっていった。 また、歌謡曲、演歌、ポップス、ニューミュージックなどと分類されていた邦楽に「J-POP」という言葉が誕生したのもこの頃だった。 この言葉を生み出したのは、1988年10月に放送を開始したFMラジオ局「J-WAVE」。洋楽専門ラジオ局としてスタートした同局で、邦楽コーナーを立ち上げる際に「洋楽として聴ける邦楽」として名付けられたのが始まりとされる。平成という新しい時代に、これまでとは異なるタイプの音楽が選曲されるカルチャーが出現しはじめた。 さらに、楽曲が歌われる環境の変化も同時に起こっていた。通信カラオケを個室で楽しめる「カラオケボックス」の全国的な普及である。それにより、スナックなどで多くの客を前にして歌う印象が強かったカラオケが、親しい人たちだけで歌えるようになり、一気に一般化していった。その影響からか、カラオケでリクエストされる曲が、これまで以上に目立つようになり、複数の曲が詰まったアルバムよりも、いかにシングル曲単体でヒットさせるかが重視されるようになった。こうした流れの中で到来したのが、CDシングルの売り上げが100万枚を超える、いわゆる「ミリオンセラー」の時代だった。 CDシングル・アルバムの年間ミリオンセラーの数は、90年にわずか3枚だったのに対し、1991年が13枚、1992年が25枚と急増。また、それまではアルバムの売り上げがシングルを上回っていたが、1990年を境にシングルが逆転する。 当時、ミリオンセラーには、いくつかの共通項があった。高視聴率ドラマの主題歌やテレビCMのテーマソングに起用される、いわゆる「タイアップ」であること。またカラオケで盛り上がれること、つまり「聴くもの」より「歌えるもの」ということだった。 その中心にいたのはCHAGE and ASKA。そしてB'z、WANDS、ZARD、DEENといった、音楽プロデューサー長戸大幸が率いるレコード会社兼マネジメント会社「ビーイング」のアーティストたちである。 こうした環境の変化に、小室も対応しようと様々なトライを重ねていた。 1990年9月、小室はTM NETWORKを「TMN」へとリニューアルし、シンセサイザーサウンドから一転、ハードロック路線に切り替え、7枚目のアルバム『RHYTHM RED』を発表。翌年には、"音の博覧会"をコンセプトにハウスミュージックを取り入れた8枚目のアルバム『EXPO』をリリースした。アルバムごとにサウンドコンセプトを変更しながら、オリコンチャート初登場1位を獲得し続けていた。 特に1991年にオリコンチャート初登場1位を獲得した25枚目のシングル『Love Train』は、カラオケでも歌いやすいポップなサウンドに仕上げた。TMのシングルとしては当時最高となる売り上げを記録したが、ミリオンセラーには届かなかった。 小室 「ミリオン」――当時、それを意識しなかったというと噓になってしまいますね。 TM NETWORKをTMNに変えてから、いろいろなチャレンジをして、そこを超えていきたいという気持ちはありました。だけど、他のアーティストがそこをクリアしていく中、なかなかそうはならなかった。 特に考えたのは、B'zが『LADY NAVIGATION』(1991年3月)で、ミリオンを達成した時ですね。ギタリストの松ちゃん(松本孝弘)は、1989年までTMのツアーに参加してくれていて、まぁTMにとっては後輩のようなものです。それが、さらっと先にB'zに持っていかれてしまった。これは、いろんなことを考えるきっかけになりました。 B'zは、稲葉浩志くんのロックを感じさせるボーカルの純粋なかっこよさもありましたけど、やっぱり「ギター」という楽器の持つ特性が大きいのではないか、と。 かつて1980年代後半にも「BOØWY」か「TM」か、と比較される時代が一瞬あって、そのこともフラッシュバックしました。ロックというか、男っぽさというか「不良性」ですよね。尾崎豊くんもそうですけど、ギターの音っていうのは、ギターを持つということだけではなく、その姿、振る舞い、生き方を含めた「不良性」を感じさせる。 でもシンセサイザーだと、どうしても「優等生」になってしまうんですよね。どこかでギターに敵わないのかもしれない。そこに「見えない100万枚の壁」というものがあるんじゃないか、と思っていました。 その頃、楽曲提供もうまくいっていたんですけど、順調なステップアップというか、バランスのよさだけでは、だめなんだということも思っていましたね。 ヒット曲って、詞・曲・編曲・歌唱力、それからパフォーマンス・仕掛けみたいな、そういう「六角形」の要素で表現できるって僕は思っているんです。だけど、その六角形がどれもまんべんなく高水準だっていうことだけでは「ミリオン」の壁は超えられない。 やっぱり「この人のおかげで売れた」というか。六角形のどれかひとつが、ぐわっと、突出していないとダメなんじゃないかって思ったんです。 「この人がこれをやったから、この曲は飛びぬけて売れた」とならないと、一般の方の耳に届かない。「確変」というか、劇的な何かが起きないと、この状況をひっくり返せないなと。この状況を一変させる「ジャンル」を作らなければと思っていました。 つづく「小室哲哉が明かす、『WOW WAR TONIGHT』制作で吉田拓郎『旅の宿』を意識したワケ」では、テレビ番組の企画から生まれたH Jungle with t『WOW WAR TONIGHT』の「裏テーマ」に迫る。
神原 一光