「桃太郎」や「黒い天守閣」で有名な岡山。その城と町の基礎をつくった戦国大名はどんな人?
映画『ジョーカー』や『マレフィセント』など、もともと〝悪役〟として描かれていたキャラクターを主人公とした作品が数多くヒットしています。時代劇でもまた、ライバルとして描かれる偉人たちがいますよね。そんな偉人たちにフォーカスを当てた『ダークヒーローな偉人図鑑』。【歴史人Kids】 今回のダークヒーローな偉人 宇喜多直家 おとぎ話「桃太郎」(ももたろう)ゆかりの場所として知られる岡山県。きび団子やマスカットなどの名物が有名ですが、黒い天守(てんしゅ)を持つ岡山城は、この県いちばんのシンボルです。 岡山は、むかしの備前国(びぜんのくに)の中心地でした。しかし、戦国時代の終わりごろまではまだ「石山」とよばれていて、あまり住む人も多くありませんでした。この場所を初めて切り開いて、岡山城や町の基礎(きそ)をかためたのが、宇喜多直家(うきたなおいえ)です。 この直家ですが「自分が生きのびるためなら手段をえらばない梟雄(きょうゆう)だった」といわれることが多い人です。いったい、どんな人物だったのでしょうか? 宇喜多家は、もともと備前の守護代(しゅごだい)の浦上(うらがみ)家につかえる国衆(くにしゅう)でした。浦上家は守護の赤松(あかまつ)氏につかえる立場でしたから、宇喜多家はとても小さな家だったのです。 ■祖父も父もいなくなり、おばに育てられた しかし、主家の浦上家をたすけていたのは、その宇喜多家の宇喜多能家(よしいえ)でした。直家の祖父にあたる人です。かれの活躍により、浦上家の権力は守護を超(こ)えるほどの力を持ったのです。ところが、能家は突然に亡くなりました。 能家の実力をおそれた浦上家または赤松家に暗殺(あんさつ)されたと伝わります。直家はその後、父も失ってしまい、伯母(おば)に育てられたといわれます。 それでも、母が浦上家で女中(じょちゅう)として働いていたこともあって、直家は乙子城(おとごじょう)という小さな城をあたえられました。このため、祖父や父に仕えた家臣たちもあつまってきて、直家を助けてくれるようになったといわれています。 やがて成人した宇喜多直家は、次々と「謀略」(ぼうりゃく)に手をそめていきます。その最初の仕事が、永禄2年(1559)に、中山勝政(なかやま かつまさ)を暗殺して、沼城(ぬまじょう)をうばったことでした。 じつは、この勝政の娘は直家と結婚していましたから、直家にとっては義理の父でした。ひどいことと思われるでしょうが、この勝政の暗殺を命令したのは、主君の浦上宗景(むねかげ)です。命令を無視(むし)すれば自分が殺される・・・直家の気持ちは複雑(ふくざつ)にゆれ動いたかもしれません。 沼城は備前のなかでも大きく、有力な城でした。ともかくも沼城の城主になった直家は、持ち前の才覚を発揮(はっき)して、つぎつぎと勢力をひろげていきます。 ■大一番の合戦に勝ち、大名の座に近づく 直家がもっとも力をふるったのが、明善寺合戦(みょうぜんじかっせん)で、三村氏を破ったことでしょう。永禄9年(1566)、隣の備中(びっちゅう)から三村家親(みむらいえちか)が美作(みまさか=岡山県の北東部)へ侵攻してきます。 三村家は有力な大名に成長しつつあり、浦上家も危うくなるほどの勢いをもっていました。そこで、三村の軍勢を防(ふせ)ぎに出たのが宇喜多直家です。直家は、まともに戦っては不利とみて、ある作戦をねります。 それは、家親の暗殺でした。鉄砲の名人である遠藤秀清(えんどうひできよ)と、弟の俊通(としみち)兄弟に、家親を鉄砲で倒すよう命じたのです。夜、三村の陣中に忍びこんだ2人は軍議(ぐんぎ)をひらいていた家親を狙(ねら)いうち、みごとに成功させました。 家親をうたれた三村家は、息子の元親(もとちか)が引きついで、また戦いをいどんできました。直家はこれを迎えうちますが敗れ、明善寺山城をうばわれてしまいます。しかし、直家は三村に味方していた有力な武将・中島元行などを寝返(ねがえ)らせ、逆に明善寺山城を孤立させることに成功しました。 すると三村元親の軍勢が、これを救い出そうと攻めてきました。直家は家臣の戸川秀安(とがわひでやす)、長船貞親(おさふねさだちか)、弟の宇喜多忠家(ただいえ)、おなじ浦上家臣の明石行雄(あかしゆきかつ)らと協力しあい、これを撃退(げきたい)しました。 数のうえでは不利な戦いでしたが、これにみごと勝利した直家は、有力な三村家を備前の西部から追いはらい、あらたに福岡(岡山県)の地をえるなど、浦上家の家中(かちゅう)でも飛びぬけて大きな地位を確保(かくほ)したのです。やがては主君の浦上家も倒して、とうとう戦国大名の仲間入りをはたしたのでした。 その後、戦国大名として備前一国をおさめていた直家ですが、天正6年(1578年)、織田信長(おだのぶなが)の家臣・羽柴秀吉(はしばひでよし)が中国地方に進出してきます。 直家は、このとき西の大国・毛利輝元(もうりてるもと)と同盟(どうめい)していたのですが、手を切って秀吉に味方する道をえらびました。毛利と織田(信長)をくらべてみて、信長についたほうが良いと判断したのでしょう。 それは、結果としては正しかったといえます。天正9年(1581)、直家は病気に倒れ、53歳で亡くなってしまいました。あとを継いだ息子は秀吉にかわいがられ、秀吉から「秀」の一字をもらって「秀家」となのり、五大老(ごたいろう)の一員にまでとりたてられました。生前の直家と秀吉の関係の良さがわかりますね。 ■直家はどうして「悪人」になった? 直家は、ここに紹介した以外にも、たくさんの「謀略」に手をそめていました。そのことから、後の世では悪名が高まり、「梟雄」という呼ばれ方をします。しかし、それは江戸時代に武士の生き方を理想化した、武士道(ぶしどう)というものが広まったためと考えられます。武士道では主君や父・母に忠誠をつくすことがもっとも大切なことで、うらぎることが最大の悪とみなされたのです。 じっさいには戦国時代の武士(武将)というのは、とにかく生きのびて自分の領地や家臣・領民たちを養(やしな)うこと、家を存続(そんぞく)させることが、もっとも大事でした。そうしなければ、宇喜多家も早くになくなっていたでしょう。それは隣の毛利家や、信長の織田家も同じでした。 たよりにならない主君に忠誠をつくすばかりでは、共倒れになってしまいます。とにかく勝つこと。勝たなければならなかったのが戦国時代の価値観(かちかん)でした。 正しいとか悪いとかを考える以前に、戦国時代とはそういう時代でした。宇喜多直家という人は、それを身をもってしめした大名のひとりだったといえるでしょう。
上永哲矢