【虎に翼・第50回】花岡悟が衝撃の餓死…モデルとなった山口良忠判事はどんな人だったのか
「悪法も法」を貫く
同9月7日には心配した親族が白石町の実家に連れ戻し、療養に入ったものの、回復することはなかった。同10月11日に栄養失調による肺浸潤で死亡する。33歳の若さだった。医師は「極度の栄養失調」と診断した。矩子さんも体を壊しており、床に伏せていた。 食管法は1942年に施行され、食糧の売買が自由に出来なくなった。同法が施行された当時の米の配給量は大人1人が1日当たり2合3勺(345グラム)。これが終戦直前の45年7月には2合1勺(315グラム)に減らされた。それが戦後も続いた。この量で健康に生きられるはずがないので、まともな法律ではなかった。 それは山口判事も分かっていた。倒れたあと、ノートにこう書いている。 「食管法は悪法だ」。それでいて判事だから「自分はどれほど苦しくともヤミの買い出しなんかは絶対にやらない」と記した。 山口判事は、古代ギリシャの哲学者・ソクラテスによる「悪法も法」という言葉を守ろうした。また、1980年に佐賀県教育委員会が作成した教育資料によると、生前は「私は正しい裁判官でありたい」と語っていた。 一方、矩子さんはのちに「(山口判事を)理解し、ついていこう、と決心しました」と語っている(山形道文著『われ判事の職にあり』文藝春秋) 山口判事の死は日本中に衝撃を与えた。同情や敬意を示す声が沸き上がった。27歳の女性は自宅のニワトリの産んだ卵を24個持って最高裁を訪れた。当時、卵は超高級品だった。 「これはヤミではありません。山口判事のように法を守るためにヤミをしない裁判官に差し上げてください」 昭和世代の間では知られたエピソードだ。なお、この女性は2016年度上期の朝ドラ「とと姉ちゃん」でヒロインのモデルとなった『暮しの手帖』の創業者・大橋鎭子さんである。 一方で山口判事には「法律至上主義の非常識な裁判官」などと批判する声もあった。当時の片山哲首相の妻・菊江氏も「夫婦の工夫が足りない」と苦言を呈し、物議を醸した。政府が批判されるのを避けたかったと見られた。 しかし、多数派を占めたのは、山口判事に寄り添う声。小説家で思想家としても名高い高橋和巳氏は、その死について「庶民次元の法に対する感覚的崩壊を食い止めた」と評した。山口判事が命懸けで表した順法精神により、戦後混乱期の法律や司法関係者への強い不信感に歯止めが掛かったと考えた。 山口判事の後輩はどう受け止めたのか。「虎に翼」を欠かさず観ている、元東京高裁部総括判事の木谷明弁護士(86)に聞いた。木谷氏は有罪率99.9%とされる刑事裁判で、無罪判決を30件以上も出した伝説の人である。 「『自分には到底まねのできそうもないことをされた』と、まず尊敬の念を抱いたのは、皆さんと同じです。毎日、食管法違反事件の被告人を裁く身になったら、自分も同じ心境になっただろうかとも思いますが、俗物である私には、それ以上の想像ができません。いずれにしても、被告人と同じ環境に身を置いて考えようとされた山口判事が素晴らしい方であったことは間違いありません」(木谷氏)