新居浜にモスク ムスリムに生涯捧げた男性
新居浜市中心部、市役所から歩いて5分ほどの一宮町2丁目に、三つのドーム型屋根が印象的な建物がある。イスラム教の礼拝所(モスク)「新居浜マスジド」だ。ニュースなどでモスクの存在は見聞きしていても、実際に見たことのある人はそう多くないのでは。というのも国内には100カ所超あるとされるが、四国にはわずか4カ所で、県内は松山市と新居浜市の2カ所しかないためだ。転勤して初めて目にした異国風の外観を持つモスクと、そこを訪れる外国人ムスリム(イスラム教徒)に興味を抱くとともに、むくむくと疑問が浮かんできた。「なぜ新居浜に?」(高岡泰聖) 関係者によると、アラビア語で「礼拝所」「平伏する場所」という意味の「マスジド」は、2019年に66歳で亡くなった浜中彰さんが2003年に完成させた。設立当時はイスラム過激派による2001年の米中枢同時テロの波紋が広がり、ムスリム全体に向けられる偏見が根強かった時代という。どのような経緯があったのか。浜中さんの人生をたどった。 ◇ムスリムとの出会い 回顧録や親族によると、浜中さんは1953年に松山市で生まれ、地元の高校を卒業後、岡山大に進学。父親がバドミントンの競技者で引退後は市協会理事長などを務めた縁で、浜中さんも幼少期から競技に没頭した。中四国では名の知れた腕前だったが、それがイスラム教との関わりにつながった。 1972年、著名な選手に会いたいとインドネシアを目指して渡航。途中で立ち寄ったシンガポールで偶然、家族の礼拝を目にする。父が子に教えを説き、母が後ろからその様子を見守る姿に「日本で失われつつある一家だんらんが礼拝とともにある。私もこのような家庭を築きたい」。感銘を受けてすぐに入信し、帰国後も学生生活を送りながら信仰を保ち続けた。 ただ1970年代の日本はイスラム教に関する情報が少なかったようで、回顧録には試行錯誤したエピソードが並ぶ。聖地メッカの方角を向いて1日5回行う礼拝は、現地で目にした姿を思い出して行うなど手探り状態。約1カ月間、日の出から日没まで飲食しない「断食(ラマダン)」も東京都の日没時間表を参考にしていたため、居住地の岡山県では時間差があり、太陽が上っている時間に食事をしたこともあった。 そんな状況だからこそか、イスラム教について学びを深めたいと、1975年にマレーシアの学校に留学。マレー語とアラビア語を習得し、秀でた成績で6年制の学校を飛び級、2年で卒業した。さらにエジプトのアズハル大学へ進学。現地で妻の曜子さん(72)と出会い、結婚した。その後、リビアの大学でも学び、イスラム教への理解をさらに深めた。 「日本でイスラムを求める人のために生きていく」。1984年10月に帰国する頃には決意は固まっていた。 ◇新居浜にモスクを 帰国後は埼玉県に居住し、アラビア語の通訳として国内を駆け巡ったが、転機が訪れる。実家が営むバドミントン用品を主体にした松山市のスポーツ店の新居浜支店オーナーとして白羽の矢が立ち、1988年に新居浜市に転居した。バドミントンの普及、競技力向上に努め、競技者らから信頼される存在にもなった。 一方で、新居浜工業高等専門学校に留学していたマレーシア人ムスリムらを店舗のアルバイトとして雇用したり、日常の相談に乗ったりし始めた。1998年にはコーランの和訳などを掲載した「イスラムのホームページ(HP)」を開設。「当時の私が出合っていたらどんなに感謝しただろうと言えるようなものを作りたい」。そんな思いをHPに残している。 そして店舗の新築移転に合わせて2003年、念願の「新居浜マスジド」を設立した。
愛媛新聞社