「海の森水上競技場」をご存知だろうか。2020年東京オリンピックの「ボート」「カヌー(スプリント)」の競技場として、東京湾の埋め立て地の水路に計画された施設だ。ところが、計画が具体化するにつれ、肝心のアスリートたちから「海の競技場なので波や風の影響が強すぎる。競技に向かない」といった声があがっている。さらに建設費が一挙に7倍に膨らんだことから、「壮大な負の遺産」への懸念もある。東京五輪をめぐる施設の問題は、新国立競技場だけではない。「海の森」の何がネックなのか。(Yahoo!ニュース編集部)
「海水でのボート競技はやりたくない」
日本体育大学ボート部の鈴木正保監督は1年ほど前、オリンピックの出場経験者と一緒に「海の森」予定地に出向き、実際にボートを漕いでもらったことがある。
「あそこに行ってみると分かるんですが、風力発電の風車が立っています。風力発電ができる風が吹く場所という証拠みたいなものですから。その風も(コースの)横から吹いてくる。横風が吹くと、ボート競技、カヌー競技では大変な問題になる」
海の森水上競技場は、東京港中央防波堤の埋め立て地の間にある水路を利用して整備する。住所は東京都江東区の青海地区。すぐ近くに鉄道の駅はなく、JRや地下鉄の「新木場駅」からタクシーで約15分という場所だ。東京近郊の人には、お台場の先のごみ埋め立て地の上に整備中の「海の森公園」の一角と言った方が分かりやすいかもしれない。
鈴木監督の懸念は何よりも、この「海の競技場」という点にある。海からの風を防ぐため、計画では防風壁を作ることになっているが、「コンクリートに囲まれているんですよ。莫大な金をかけて人工のコースを作って、そこで是非オリンピックをやりたいというのはおかしい」。
おまけに、この場所は超過密空港でもある羽田空港への飛行コース直下にある。「集中したい選手が旅客機のごう音によって集中力もなにかも吹き飛ばされてしまう」と鈴木監督は付け加えた。
日本におけるボート競技の第一人者も「海の森」に強い懸念を持っている。1996年のアトランタ五輪から5回連続で五輪に出場した武田大作選手(DCMダイキ所属)だ。2000年のシドニー五輪と2004年のアテネ五輪では、軽量級ダブルスカルで6位入賞を果たした実績を持つ。
「完全な海水でのボート競技は五輪で初めて。不適当だと思います」と武田選手も言う。
「海だと(浮力で)若干、舟が浮いたようになり、風によるうねりもある。本当に漕ぎにくい。(うねりを防ぐために堰を造ったとしてもコースの)左右で差が生じます。コースの幅が広いので、両岸でフェアかというとフェアではない。海なので必ず風が吹き、レーン差が出ます。後輩も『本当に海でやるんですか』という意見ですね。みんな、びっくりやと思いますよ。あのコースはだめですね。みんな、あそこでやりたくないと言っていますね」
「都市開発ありき」の指摘も
不透明な事業予算の問題も大きい。
東京都が2013年1月、国際オリンピック委員会(IOC)に立候補ファイルを提出した時、「海の森」の本体工事費は69億円とされていた。ところが、その年の9月に東京開催が正式決定された後、工事費はいきなり、1038億円と見積もられた。一挙に10数倍である。国民注視の中で進んだ新国立競技場のケースは、1300億円が2500億円に倍増して大騒動になった。金額の大きさは違うが、膨らみ方は「海の森」がはるかに大きいのだ。
2014年11月になると、舛添要一都知事が「圧縮した」と都議会で表明し、金額はおおよそ半分の491億円になった。それでも、当初の見積もりの7倍だ。
なぜ、こんなことになっているのか。東京都オリンピック・パラリンピック準備局施設輸送担当部長の花井徹夫氏にたずねると、こう説明した。
「当初の69億円というのは、立候補ファイル時点の整備費です。やりたいです、と立候補した時の金額なんですよ。なので、具体的なことが極めて難しい中、本体工事費だけを計上しています。調査や設計、周辺の整備費は含んでいなかったんですね」
花井氏の説明によると、本体施設の設計費や上下水道など周辺整備の費用、海域の調査に掛かる経費といったものは、東京開催の決定後に足し算した、というのだ。工事期間中の警備に関する費用、消費税の増税分(立候補当時は5%、開催時は10%)、物価上昇の見込みなども盛り込んだ結果、「491億円」という見積もりに変更されたのだという。
そういった計画に対し、「2020オリンピック・パラリンピックを考える都民の会」のメンバーは、異を唱え続けている。五輪開催を都民の目線で見つめ直し、より良い大会にしようと活動を続ける団体だ。
都民の会事務局長の萩原純一さんはそもそも、「海の森」はスポーツ振興のためなどではなく、都市開発ありき、で始まったと考えている。同じく都民の会のメンバーの市川隆夫さんはこう指摘する。
「2016年(開催の五輪)招致に失敗した時も、ボートとカヌーはここでやる計画だったんです。臨海部の選手村を中心に8キロ圏内に施設を集め、コンパクトなオリンピックということを売りにした」
その8キロ圏内を地図に落とすと、東京の臨海部がすっぽりと入る。そこは企業誘致などが思い通りに進んでいない再開発エリアでもある。
「東京都は臨海部開発の失敗したツケをね、オリンピックでいろいろ(施設を)ここに持ってきてという狙いがあるんじゃないかって。(邪魔な)橋も撤去して。そういう東京都の全体計画の中で臨海部を再開発する大きな狙いがある」と、萩原さんは疑念を口にする。
都市政策を専門とする五十嵐敬喜・法政大名誉教授も「海の森」の経緯には大きな疑問を持っている。「節約でコンパクトな五輪にすると言ってたものが、どんどん膨れあがっている。(森喜朗氏の話では)何兆円になる、と」
五十嵐名誉教授の指摘のポイントは、情報公開の少なさ、にある。
「わけの分からない金がずっと積み上がっていく。前に1038億円に増えたとき、関連施設を入れるから増えたと聞きました。じゃあ、どんな関連施設か、何と何か。それすら分からなかった」
工事の主体もばらばらで、「海の森」本体の発注者は東京都港湾局。他国のように「スポーツ省」などが全体を見渡し、工事など準備段階から統一的に仕切っていく仕組みになっていない、とも指摘する。「新国立競技場より目立たないから関心が低いと思うが、問題の性質と疑惑は国立競技場と同じ。もっと根深いかもしれない」
却下された「ボートの町」の代替案
アスリートが反対し、都民や専門家も疑問を投げかける「海の森」。実は、「反対」の声の中には代替案もあった。発信地は埼玉県戸田市。前回1964年の東京五輪でボート競技の会場となった戸田漕艇場がある。「ボートの町」として、名は全国に知れ渡っている。
その戸田市は日本オリンピック委員会(JOC)や東京都に「戸田市の彩湖を会場にしてほしい」と要望してきた。戸田漕艇場は現在では国際規格に合わず、五輪会場にはなれないが、同じ市内には荒川の調整池として造られた「彩湖」がある。淡水の湖なので当然、塩の影響はない。風は静か。波の影響もない。広さも十分で、アスリートたちも「臨海部の海でやるより、彩湖がはるかにいい」と口にする。
戸田市の神保国男市長によると、ボート競技の関係者らが地元建設業者に見積もってもらったところ、国際規格のコースが50億円弱で可能だったという。そこで、彩湖での競技場計画を立て、図面も完成させ、東京都にも組織委員会にも持って行く。最初は2014年9月だった。翌年1月にも東京都知事あてに要望したが、芳しい反応はなかった。
「東京湾は通常、3〜4メートルの風が吹くでしょう? ここはほとんどありません。公平なレースができる、と。費用面でも非常に安く済む、と」。さらに付け加えたい、と市長はこう言った。「五輪後の利用については、まさに戸田が今までずっとやってきた。選手も日頃、戸田に来ている。戸田で開催すれば競技場はオリンピックの遺産として残ります」
ボートの町で長年、アスリートたちを励まし、育ててきた埼玉県ボート協会理事長の和田卓さんも、彩湖の優位性をこう強調する。
「日本の一番いい場所を世界の人たちに見せる。世界最高の場所を日本が提供し、最高のパフォーマンスを出してもらうのが、ホスト国としての役割じゃないかなと思います」
ボート競技だけでなく、カヌー競技でも「海」の影響は大きい。埼玉県カヌー協会理事の藤田五月さんは、他の競技関係者と同様、風の影響を挙げた上で、カナディアン・シングルで不公平が出るとの見方を示す。カナディアンは右漕ぎ・左漕ぎの選手がおり、横風があると、「アンフェアな競技になる」と言う。
戸田漕艇場では連日、大学ボート部員らが厳しい練習を続けている。「海の森」に反対ではない、と考える法政大学ボート部のコーチも、波や風の影響を懸念する。学習院大学のヘッドコーチも「ボートって白波が立つとレースをするかしないか、というレベルになる。ボートをやる場所としてどうか。交通の便も含め、戸田の方が圧倒的にいい」。東京大学ボート部の選手も同意見だった。
競技の主人公であるアスリートたちが懸念を示し、予算面でも疑問が指摘される「海の森」。しかし東京都は、施設の本体工事を落札した施工業者と正式に契約を結び、新年度から本格的に競技場の建設を始める予定だ。
※冒頭と同じ動画
[制作協力]オルタスジャパン
[写真]
撮影:木村肇
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝