年が明けて2週間くらい経ったころ、昨秋からずっと気になっていた人が電話をくれました。阪神タイガースに7年間在籍、そのあと2014年から社会人・三菱重工長崎でプレーしていた野原将志選手(28)です。

社会人3年目を迎えた昨季は覚悟を持って臨むと話していたし、表情からも「終わりを決めたのかな?」という気配は読み取れました。でも昨年11月の社会人野球日本選手権(京セラ)は初戦で敗退してしまい、野原選手自身が出番なく終ったこともあって、あまり話せなかったのです。そして日本選手権から長崎に戻った半月後「三菱重工長崎硬式野球部が休部」というニュースも流れて…。退社の意向ではあったようですが、この時点ではまだ未定とのことでした。

「あけましておめでとうございます!ことしもよろしくお願いします」と電話があったのは、そろそろ進路を聞いてみようかなと思っていた矢先。そう伝えると「ナイスタイミングですねえ!」と明るい声で笑います。それで?と尋ねたら「就職が決まりました。野球とは関係なくて、福岡で不動産関係の仕事をします。営業ですよ」とのこと。21日に引っ越すため、ちょうど準備中だったみたいです。

阪神3年目、2009年4月16日のオリックス戦(北神戸)。8回に代打でHR!
阪神3年目、2009年4月16日のオリックス戦(北神戸)。8回に代打でHR!
大活躍した阪神4年目の2010年、インターコンチ杯のJAPANユニです。
大活躍した阪神4年目の2010年、インターコンチ杯のJAPANユニです。

就活は?「動いたのは休部が決まってすぐです。まず野球関係で探したんですよ、コーチとかも含めて。独立リーグの話はありましたけど、遠くへ行くのは難しいかなと…」。昨年、2人目の女の子が生まれて家族4人になりましたしね。おいそれとは動けないでしょう。「上園さんや西村さんからも連絡ありました。どうしてるんや?って。いろんな方に気にかけてもらって、本当にありがたかった」

タイガースの先輩をはじめ、多くの方々からいただいた心遣いに感謝しつつ、出した結論は―

「これまで野球ばっかりで家族をみていなかったので、いったん野球から離れて家族のことを考えたいと思います。それに僕は社会も見てきていないし、社会と家族に目を向けていこうと。そこで、まず家庭を一番に考えました。お金や場所を気にしなければ現役でプレーしたり、またコーチとしてやれたと思いますが、プロの時も社会人でも自分のことばっかりだったので、ここでいったん野球から離れてみようと」

約20年間、野原選手にとって生活の一部から、やがては人生そのものとなった野球に、一度ここで区切りをつけることにしました。

創部100周年を目前に…

社会人野球の3年は、どんな時間だった?「三菱もタイガースと一緒で、やっぱり注目度は高いんですよ。長崎県に1つしかないチームなんで。だからすごく応援もしてもらえた。環境は決して良いとは言えなかったけど、そういう高い注目度と厳しい環境の中でやったことは、きっと今後の人生に役立つと。行って失敗だったとは、まったく思わないですね」

昨年10月の日本選手権で敗れ、フッと大きく息を吐いた野原選手。
昨年10月の日本選手権で敗れ、フッと大きく息を吐いた野原選手。
可愛い息子さんの、このユニホーム姿も見納めでした。
可愛い息子さんの、このユニホーム姿も見納めでした。

社会人野球のチームにとって休部、廃部が他人事でない時代は長く続いています。1918年創部の三菱重工長崎は、三菱グループの硬式野球部で一番古いチーム。しかし社会人2大大会である『都市対抗』『日本選手権』の本大会からも数年遠ざかっていた2014年、当時の開田監督がおっしゃったように「97年の歴史で初めてプロ出身者を現役採用」したのが野原選手です。

大きな期待を背負った1年目、都市対抗は予選敗退。その直後に副キャプテンを任され、2年目の2015年はキャプテンとして、6年ぶりの『都市対抗野球大会』に、また4大会ぶりの『社会人野球日本選手権大会』とダブルで出場。入った時から「本大会に出られなければ休部もある」と危機感を持っていただけに、心底ホッとしていた様子が思い出されます。本人から聞いた、印象に残っていることの1つが、やはり都市対抗出場決定の試合でした。

2015年6月6日から熊本で始まった都市対抗九州地区2次予選。第1代表を決める戦いでは準決勝で11回サヨナラ負けを喫し敗者復活戦に回りますが、そこで3連勝して第2代表の座をものにしたのです。そして6年ぶり17回目の本大会は初戦で敗退したものの、野原選手が放ったセンターフェンス直撃の二塁打は忘れられません。

でも負けたら終わり、あすなき戦いが社会人の常です。「そんな、企業チームだからこそのピリピリした中でプレーできたことは大きかった。実際になくなってみると感慨深い」と振り返ります。また、昨年は都市対抗を逃し、日本選手権は2年連続で出場するも初戦で敗れたため「おととし2大会に出て、あそこで辞めていたら…今こんな思いをしなくて済んだかな、なんて考えたりしました」とポツリ。

昨年10月、練習試合の後に大阪のファンの方と笑顔で話す野原選手。
昨年10月、練習試合の後に大阪のファンの方と笑顔で話す野原選手。

覚悟をしながらも、やはり創部100周年を目前にして突き付けられた、“重工長崎”の名前が消える現実は辛かったでしょう。

「諸先輩に申し訳ない。伝統だけはお金で買えないから。自分たちが潰してしまった、という思いもあります」

チームの約半分が引退

昨年11月15日に発表されたのは三菱重工長崎と三菱日立パワーシステムズ(MHPS)横浜の硬式野球部が統合され、新しく『三菱日立パワーシステムズ硬式野球部』として2017年1月に発足するというもの。とはいえ本拠地が横浜になり長崎での活動はありませんので、実際には“休部”とも言えるでしょう。昨年9月頃から検討はされていたとの報道もありました。

2015年の社会人野球日本選手権。野原選手(左)と江越選手。
2015年の社会人野球日本選手権。野原選手(左)と江越選手。
昨年4月のJABA岡山大会。エース奥村投手(左)と2人で。
昨年4月のJABA岡山大会。エース奥村投手(左)と2人で。

「日本選手権が終わってから何かザワザワしてきたんですよ。1週間の休養があって、そのあと集合した時におかしいなと。休部の発表は1週間後でした。それで2日後には(去就を)決めてこいと言われて。独身者は翌日までに、妻帯者は翌々日までに」と野原選手。つまり横浜へ行って現役を続けるか、退部するかの進退です。当初の予定より早い1月1日に、統合した新チームのスタートが予定を前倒しして2017年1月1日となっため、かなりバタバタしたようですね。

野原選手はすぐに就活を始めたけれど「横浜に行く選手は、そこでの職場探しから始まるわけですよ。奥村も難航して、決まったのが一番最後だった」と言っていました。チームのエースである奥村政稔投手、決まってよかったですねえ。でも野原選手をすごく慕っていたので、寂しいかもしれません。そうそう、阪神タイガース・江越選手の弟である江越海地選手も横浜へ行きました。引き続き、新生『MHPS硬式野球部』を応援してください!

もう見られない三菱重工長崎のロゴが入ったボール。
もう見られない三菱重工長崎のロゴが入ったボール。
三菱重工長崎のグラウンドから見える稲佐山。
三菱重工長崎のグラウンドから見える稲佐山。

「僕はことしで辞めるという思いがあったので、これを潮時とも言えますけど、他の選手は気の毒でした。特に『まだやりたい、でも家庭がある、今の給料をふいにして他で野球をやるというのは厳しい』と、仕方なく辞める子も何人かいたんです。かわいそうだった。個人的には続けてほしい、でも無責任なことは言えないから。相談には乗るけど、横浜へ行ってプレーしろ!とかは言えないでしょう?それで1年や2年でクビになっても、帰ってこられない。仕事があるから戻りたくても戻れないんですよ。九州に」

チームメイトの心境を語る野原選手です。結果、横浜でも指揮を執る後隆之監督と15人の選手が“移籍”、既に内定していた新卒の4選手も横浜へ。そして1人が九州三菱自動車へ移り、野原選手を含む14人が引退となっています。12月20日、三菱球場で行われた長崎での最後の練習では稲佐山までのランニングで締めくくったとか。そして翌21日には監督やコーチ、部員が出席して『三菱重工長崎 感謝の集い』が開催されたそうです。野原選手ももちろん参加しました。

次はサラリーマン1年生

最後に、もうひとつ印象に残った試合があると野原選手は言います。「去年のJABA九州大会での東海理化戦。そのチームに小学校の時から知っている選手がいて、高校卒業後に試合をするのは初めてでしたし、僕は結果的に現役最後のスタメン出場だった試合なので」。なるほど、以降はスタメンがありませんでしたね。その選手とは、長崎日大でも同級生だった大嵜隆平外野手です。IABA九州大会・予選リーグ最終日の8月8日(北九州市立大谷球場)、三菱重工長崎が13対6で東海理化に勝っています。

昨年8月のJABA九州大会。高校の同級生・東海理化の大嵜隆平選手(右)と。
昨年8月のJABA九州大会。高校の同級生・東海理化の大嵜隆平選手(右)と。

同級生ツーショット写真は、野原選手いわく「お互いに、この年で上がる予定だったんで記念に撮っていた」ものです。じゃあ大嵜選手も引退?「いえ、大嵜は残りました。自分だけ…」。あ、そうですか。ことしも現役続行だそうですよ。応援に行かなくちゃいけませんね。

今月末に現職場を退社して、2月1日からは福岡の天神にある不動産会社勤務となる野原選手。って、ここまで全部 “選手” と書いてきましたけど、よく考えたらもう選手じゃないんですよね。でも今回はまだ野原選手でいかせていただきます。仕事は営業、何となくイメージはできます。「今までグローブとバットを持っていたけど、これからは名刺が僕の道具になります」と笑っていました。

野球は?と聞いたら「とりあえずは考えない。遊びでやることはあると思いますが、それくらいで。ガッツリはしないでしょうね」とのこと。ひとまず引退しましたが、2年前に学生野球資格回復制度の研修を受け、修了証も交付されています。今度は指導者として、また違うユニホームに袖を通すところが見られるかもしれません。

そんな夢を抱きつつ、営業マン・野原将志氏にエールを送りましょう。今までありがとうございました。これからの人生も、また応援しています!

昨年10月31日の日本選手権(京セラ)。これが最後のユニホーム姿となりました。
昨年10月31日の日本選手権(京セラ)。これが最後のユニホーム姿となりました。