世界の最貧地域

これまでに述べたように、現代においてアフリカは世界中から経済的な関心を集めており、それを反映して対外直接投資が相次いで流入し、貿易が活発化している。これによって、2000年代を通じて平均約5パーセントのGDP成長率を記録するなど、アフリカ経済はこれまでにない活況を呈している。

しかし、その一方で、地域レベルで比較した場合、アフリカはいまだに世界の最貧レベルにある。図4-1は各地域の一人当たりGDPと1日2ドル未満の所得水準の人口比を示している。ここから、アフリカが南アジアと並んで、平均的な所得水準で飛び抜けて低いことがみてとれる。

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ただし、これに関連して、注意すべき点をあらかじめ二つ指摘しておきたい。第一に、これを言っては元も子もないと思われるかもしれないが、アフリカに関係する統計資料の数値を額面通りに受け止めることはできないということである。世帯ごとの国勢調査が行われ、税務署によって所得のほとんどが捕捉されている日本と異なり、アフリカの場合は公共機関に人手や能力の問題が多く、人口さえ正確に把握されていない場合がある。経済データにおいても同様で、アフリカでは道端での物売り(女性や子どもが多い)から、登録されていないタクシー、免許などを持たない自動車修理工場などに至るまで、税務署など公的機関に捕捉されない経済活動が盛んである。これらはインフォーマル経済と呼ばれ、その全貌は不明で、統計に表れるフォーマル経済とほぼ同規模があるとさえいわれる。したがって、アフリカに関する統計データは、おおよその目安として利用するしかない。

第二に、先進国と異なりアフリカにおいては、特に自給経済の比率が高い農村部では、現金収入がそのまま生活レベルに反映されるとは限らない。インフレなどに直面しやすいアフリカ各国の通貨は、南アのランドなどを除き、総じて信用度が低い。そのため、現金ではなく家畜などの形で資産を保持し、必要に応じて現金化することが現在でも珍しくない。したがって、先進国で1日2ドル以下の所得であった場合、それはすぐさま生死に直結しかねない状況であるが、アフリカにおいては必ずしもその限りではない。

とはいえ、これら二点を踏まえたうえでなお、少なくとも統計に表れるデータだけみても、一般的な所得水準の低さはアフリカにおいて大きな問題といえる。低所得であることは、個人にとって生活の選択肢の幅を狭め、さらに様々なリスクに対処する能力を低下させる要因になる。さらに、個々人が脆弱な立場にある場合、その社会もまた持続的に発展することは困難である

貧困がもたらすリスク

貧困がもたらすリスクを、まず教育の面からみていこう。貧困世帯では子どもを学校に通わせ、教育機会を与えることが困難になりやすい。図4-2で示すように、段階的に改善はみられるものの、サハラ以南アフリカは他の地域と比較して、初等教育の就学率が総じて低い。多くの国では義務教育の学費が無償であるが、それでも初等教育を修了せずに学校に来なくなる子どもが珍しくなく、児童労働も広くみられる。識字能力の低さが将来の就労機会や所得水準を大きく左右することは、いうまでもない。

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のみならず、教育水準の低さは、「食事の前には手を洗う」といった基本的な科学知識の普及すら妨げることになりやすい。近年、UNDP(国連開発計画)などの国際機関が、アフリカなど開発途上国における女子教育の普及に力を入れているが、これは「教育を受ける権利」の保護や、女性の経済的自立を促すだけでなく、多くの場合、将来的に炊事や育児などで家族の健康を担当することになる女性の教育機会を保障することで、世帯、社会全体の健康改善を視野に入れたものである。

次に、健康の面でみていこう。表4-1は、各地域の医療、健康の状態を示しており、サハラ以南アフリカはやはり、総じて悪いスコアを示している。なかでも、医療水準、栄養状態、衛生環境などをトータルで表す平均余命の低さや乳幼児死亡率の高さが際立っている。この大きな要因としては、医師の数や水へのアクセスの低さなどでみられるように、医療、衛生面でのニーズに政府が充分な政策を講じられないことがあげられる。

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しかし同時に、必要な財やサービスが市場で流通していても、購買力がなければ得られないものも少なくないことも見逃せない。すなわち、平均的に所得が低いが故に、例えば病気になっても病院に行けず、薬を買えない人も多い。アフリカでHIVが蔓延する要因の一つには、AIDSの発症を抑える抗レトロ・ウィルス剤が高価であるため、貧困層がこれを購入できないことがある。また、全国レベルの健康保険制度もほとんど発達していない。

これに加えて、所得水準が低いことは、干ばつなど自然環境の突発的な変化が発生したとき、そのダメージを大きく受けやすい。作物が被害を受けたとしても、購買力があれば市場を通じて食糧を手に入れられる。しかし、ほぼ自給自足に近い生活を送っていて、干ばつで食糧がなくなれば、それは現金を手に入れる手段がなくなることをも意味する。現金をもたない者を、市場は相手にしない。その財に対する必要性が高まることは、必ずしも需要の発生を意味しないのである。需要が発生しなければ、市場を通じた供給も当然発生しない。1999年にノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、飢餓が発生した地域で公共事業を行い、現地で人を雇用して給料を支払い、購買力を付けさせることで、市場から食糧を手に入れられるようにする政策を、飢餓対策として推奨している(アマルティア・セン、2000、『貧困と飢饉』、黒崎 卓・山崎幸治訳、岩波書店)。これらに鑑みれば、自給経済を中心に生きる人にとっても、購買力が低い状態で生きることのリスクが大きいことは否定できないのである。

なぜアフリカは独立後も貧しいか (1)モノカルチュア経済

一般に、アフリカには貧困や飢餓といったイメージがつきまとう。実際、既にみたように、少なくとも一人当たり所得の低さは際立っている。しかし、かつてアフリカの所得水準は、アジアより高かった。図4-3は、サハラ以南アフリカ諸国が相次いで独立した1960年から2010年代初頭までの、地域別の一人当たりGDPの比較である。ここからは、東南アジアを含む東アジア諸国と対照的に、アフリカが長期に渡って成長から見放されていたことがわかる。それでは、なぜアフリカは「慢性的な停滞」に陥ったのか。

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アフリカの「慢性的な停滞」の要因を、ごくコンパクトにまとめるとすれば、以下の5点があげられる。すなわち、(1)モノカルチュア経済の存続、(2)西側先進国の過剰な干渉、(3)国内の分裂とクライエンタリズム、(4)都市住民の政治的発言力、(5)政府の脆さ、である。

このうち、まずモノカルチュア経済は、特定の一次産品の輸出に依存する経済構造であり、19世紀の植民地支配の遺産でもある。広大なアフリカ大陸をケーキでも切り分けるように分割し、植民地化した西欧諸国の大きな目的は、当時本格化していた産業化のなかで必要とされた、工業製品や嗜好品の原料となる一次産品(例えば機械油の元となる落花生や、近代以降にヨーロッパで消費されるようになったコーヒー豆やカカオ豆など)と、自国の工業製品にとっての市場を確保することであった。そのため、基本的に西欧諸国は植民地時代からほぼ一貫して、アフリカの工業化に関心を持たなかったのである。

特定の一次産品の輸出に依存することは、自然環境や国際市場の変動に影響を受けやすく、長期的な成長を期待しにくい。東アジアで1970年代半ば以降にNIES(新興工業経済群)と呼ばれた韓国や台湾が、1980年代末以降に中国が、それぞれ爆発的な経済成長を遂げた一因としては、輸出向けの製造業が急成長したことがあげられる。これは、現地政府が米国や日本などの民間企業を誘致したことで実現した。ところが、アフリカは製造業を発達させることができなかった。1960年代初頭に集中した独立の後、多くのアフリカ諸国では数多くの国営企業が設立され、国内向けの製品を自前で生産する「輸入代替工業化」が目指された。これは「民間企業」がほぼ「海外企業」によって占められていた当時の開発途上国に広くみられたアプローチで、後にNIESと呼ばれた諸国も当初は輸入代替を行っていた。

ただし、その資金源のほとんどは植民地時代からのモノカルチュア経済が支えることとなったため、アフリカはますます一次産品の輸出への依存を深めた。アフリカ・ブームの国際政治経済学 2.「新たな争奪戦」(1)で触れたように、アフリカの要望を受ける形で、その最大の通商相手であったEUの前身EC(ヨーロッパ共同体)は、1975年に一次産品を低率の関税で輸出できる「一般特恵関税」制度を含むロメ協定をアフリカ諸国や太平洋、カリブの各国との間で結んだ。アフリカからみてロメ協定は、他より有利な条件で西ヨーロッパ市場へ輸出できるもので、一次産品輸出による収入を安定化させる側面があるが、それは同時に一次産業以外の産業を育成するインセンティブを阻害するものでもあった

その結果、多くのアフリカ諸国は独立以来、モノカルチュア経済から抜け出せていない。図4-4で示すように、サハラ以南アフリカは大規模産油国の多い中東・北アフリカに次いで経済活動に占める輸出の割合が高い。これにより、国際経済の変化にさらされやすい。さらに図4-5で示すように、段階的に低下しているとはいえ、他地域と比較して、いまだに農産物輸出への依存度が高い

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なぜアフリカは独立後も貧しいか (2)西側先進国の過剰な干渉

アフリカが「慢性的な停滞」に陥ったもう一つの国際的要因として、1980年からIMF(国際通貨基金)と世界銀行によって導入された「構造調整計画」があげられる。これは少なくとも結果的に、モノカルチュア経済を固定化させただけでなく、アフリカの貧困に拍車をかけたといってよい。

図4-6で示すように、1970年代にアフリカ諸国は、巨額の対外債務を抱え始めていた。当時の債務は、二度の石油危機の後に、欧米諸国の金融機関から受けた融資がほとんどであった。欧米の金融機関には石油危機後、産油国から巨額のオイルマネーが流入していたが、不景気で先進国企業が新規投資を控えていた。その結果、金融機関は非常に甘い審査のもとで、やはり石油危機の影響を受けていたアフリカ諸国政府からの求めに応じ、これに融資を行ったのである。すなわち、この債務危機は安易に融資で資金を調達したアフリカ諸国政府はもちろんだが、やはり安易に資金を貸し付けた金融機関にも責任があったと言わざるを得ない

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いずれにせよ、アフリカの財政破綻は自国の金融機関の共倒れを招きかねないため、欧米諸国にとっても他人事ではなくなった。そこで、アフリカの債務危機に対応するために、先進国がIMFと世銀を通じて進めたのが構造調整計画であった。これはアフリカ諸国に経済成長を促し、それによって債務返済を可能にすることを目指すものであった

構造調整計画のもと、IMFと世銀はアフリカ各国への融資の前提条件として、国営企業の民営化、通貨の切り下げ、貿易・販売の規制緩和、各種の補助金出の削減などを求めた。これらはいずれも、欧米諸国で勢いを持ち始めていた新自由主義に基づく条件であり、これらの処方箋はアフリカの財政再建と経済成長の実現を見込んでいた。いわば、IMF・世銀は融資を盾に、アフリカ各国に市場経済化と「小さな政府」路線への転換を求めたのである。

しかし、新古典派経済学あるいは新自由主義に基づき、市場原理のみを信奉して「競争力のあるものを輸出し、必要なものは輸入すればいい」となると、当時のアフリカにおいてそれは製造業を縮小し、モノカルチュア経済に戻ることに他ならなかった。のみならず、公的支出の削減を求められたため、教育や医療などの予算も縮小を余儀なくされた。その結果、市場経済化のなかで貧困層の生活コストはさらに増加することとなった。すなわち、構造調整計画はアフリカの貧困を悪化させたのである。

一方、構造調整計画はマクロな成長と安定にも寄与しなかった。図1-1で示したように、1980年代から90年代にかけて、多くのアフリカ諸国はほとんど経済成長できなかった。むしろ、この時期にはIMF・世銀からの債務だけが膨れ上がった。図4-6からは、アフリカ各国の対外債務が他地域に増して増加し、1990年代初頭には返済が事実上不可能な水準に至ったことが見て取れる。

成果の出ない構造調整計画は、先進国内部や他の国際機関からも批判を呼んだ。1986年、UNICEF(国連児童基金)は『人間の顔をした調整』と題するレポートを発表し、IMF/世銀による構造調整計画が貧困層にもたらす弊害を指摘し、その改善を求めた。また、債務返済の負担がアフリカ各国政府をして公共サービスの縮小に向かわせ、貧困層の負担が大きくなった現状を批判して、1990年代の半ばにはNGOネットワーク「ジュビリー2000」により、西側ドナーに債務免除を求める運動が世界中で展開されることとなった

これらの批判を受けて、IMF/世銀は1990年代の末から段階的に債務を免除し、西側先進国は援助の方針を、財政均衡から「貧困削減」にシフトさせざるを得なくなった。債務免除により、図4-6で示すように、2000年代に入ってアフリカの債務負担は軽減したが、この方針転換は事実上、西側先進国やIMF・世銀が構造調整計画の失敗を認めたものといえる。ただし、欧米諸国はその後も基本的に、アフリカに対してさらなる市場経済化と規制緩和を求める姿勢を崩していない。

なぜアフリカは独立後も貧しいか (3)国内の分裂とクライエンタリズム

一方、アフリカの停滞には、アフリカ自身の問題もある。なかでも、アフリカ各国が先天的に抱える国内の分裂は、「慢性的な停滞」の一因となってきた。

アフリカ諸国の国境は、現地の言語や文化の分布にかかわらず、ヨーロッパ列強の陣取り合戦の結果として生まれた境界線に基づく。その結果、他の地域と比較しても、アフリカには国内の統一性が乏しい国が多い。1億人以上で、アフリカ大陸最大の人口を抱えるナイジェリアの場合、国内には250以上のエスニシティ(民族、部族)がいるといわれる。数多くの文化、宗教、習慣が林立する状態は、国家、国民としての統合を困難にする。多くの国で旧宗主国の言語が公用語であるのも、特定のエスニシティの言語が採用された場合、必ずといっていいほど対立が発生するからに他ならない。

このような状況にあるアフリカ各国では、選挙が実施されたとしても、人口の多いエスニシティが政治権力を握り、その結果として経済的利益をも握りやすい。一例として、大陸最大の産油国ナイジェリアをあげよう。1960年に独立したナイジェリアでは、選挙を通じて、人口で多数派のハウサが連邦政府の重要ポストを独占した。ところが、油田のほとんどはハウサの多い北部でなく、人口でハウサに劣るイボが多い東部に集中している。ハウサ主体の連邦政府のもと、原油収入が国庫に納められる状況は、イボからみて「自分たちの原油」の収奪に映った。その結果、独立から間もなく東部諸州は分離独立を宣言し、連邦政府との内戦に至ったのである。このビアフラ戦争(1967-70年)は、連邦政府の勝利で終わったが、その一方で、アフリカにおいて国内の分裂が政治的な不安定とともに、富の不均衡が生まれやすいことを象徴した。

このような環境のもと、独立直後の1960年代半ば以降のアフリカでは、多くの国で一党制が採用されるに至った。複数政党制のもとでは、それぞれのエスニシティが政党を結成し、政治家がエスニシティや地域の利益の代弁者となるため、国家としての一体性が危ぶまれたからである。しかし、一党制のもとで、非効率的な資源配分と国民の分裂は、むしろ加速した。

もともと、アフリカのエスニシティには、地縁・血縁のある関係のなかで「持てる者が持たざる者に富を分け与える」という習慣がある。これはクライエンタリズム(縁故主義)と呼ばれ、過酷な自然環境のもとで発達した、一つの道徳律ですらある。ただし、大統領といえどもこの習慣・道徳律から自由ではないため、クライエンタリズムが国家機構に取り入れられることで、政府の要職にある者が自らの出身エスニシティを優遇することになりやすい。例えば、1963年に独立したケニアでは、初代大統領ジョモ・ケニヤッタの時代、ケニヤッタ自身の出身エスニシティ、キクユが多いセントラル州に道路建設などの公共事業が集中した。ところが、1978年にケニヤッタが死去し、副大統領ダニエル・モイが大統領に昇格すると、今度はモイの出身エスニシティ、カレンジンが多いリフト・バレー州に開発予算が集中したのである。このような事例は、アフリカでは枚挙にいとまがない。

1960年代に生まれた一党制のもと、ほとんどのアフリカの国では、ケニアのような恣意的な権力行使と、便宜を図ってもらうための汚職は爆発的に増殖した。人工的な国境線に由来する国内の分裂と、アフリカ特有のクライエンタリズムが、国家レベルで貧困から抜け出すための足かせになる構図は、1990年代に多くの国が民主化した後も、基本的に存続しているといえる。

アフリカ・ブームの国際政治経済学 4.成長と貧困が併存する大陸(2)に続く