4月7日、1994年に約80万人の犠牲者を出したルワンダ大虐殺から、20年の節目を迎えました。ルワンダでは政府主催の追悼式典が開かれましたが、この式典をめぐって、ルワンダとフランスの外交関係は、これまでになく悪化しています。

6日、ルワンダ政府がフランスに対して、大虐殺にフランス政府が加担したことを認めるように求めたのに対して、フランスがこれを拒んだのです。フランス政府はトビラ法相の出席を取りやめ、駐ルワンダ大使を出席させる方針を決定(事実上の格下げ)。これに対して、ルワンダ政府は駐ルワンダ・フランス大使の式典出席を禁止しました。

外交的な応酬が続いていますが、この問題は「人道」を掲げた活動がもちがちな危険性を再認識させると同時に、近代以降「声なき者」と扱われがちだったアフリカが、まさに「声をあげ始めつつある」ことを象徴します。

ルワンダ大虐殺の背景

もともと、ルワンダは19世紀にドイツの植民地でした。しかし、第一次世界大戦でドイツが全ての植民地を失った際、ベルギーの信託統治領となりました。1962年にベルギーから独立したのですが、その後はフランスとの関係が強まりました。フランスにとってアフリカは、「大国」としての自らの発言力を担保するための基盤です。そのため、旧フランス領だけでなく、「フランス語圏」で共通する旧ベルギー領にも軍事・民生の両面での援助に加えて、貿易・投資といった経済関係も強めました。

独立後のルワンダでは、人口の約80パーセントを占める多数派フツを中心とする政府が、約20パーセントの少数派ツチを支配する構図が定着していました。フランスがルワンダとの関係を強化するという場合、それはこの「フツ中心の政府」との関係に他なりませんでした。

特に冷戦時代は、相手国の政府との関係が外交のほぼ全てだったといえます。実際、1973年にクーデタで政権を獲ったハビヤリマナ少将(フツ)が大統領に就任すると、フランスはあからさまにこれを支援しました。フランスに限らず、西側先進国にとって重要なことは、その政府が国際的に西側に近いか否か、自らの経済的利益を阻害しないか、のほぼ二点にあったといえます。

しかし、1990年10月、長年支配されていた鬱積を晴らすように、ツチの武装組織「ルワンダ愛国戦線(RPF)」が蜂起。1993年8月、両者は国連安保理の決議に基づき、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)の受け入れに同意する「アルーシャ合意」に調印しましたが、翌1994年4月にハビヤリマナ大統領が飛行機事故で死亡したことによって、内戦は再燃。RPFが首都キガリ近郊にまで迫ったのです。

この際、RPFによって首都が占拠される事態を恐れた政府は、国営ラジオなどを通じて「ツチの抹殺」をフツ系国民に呼びかけました。RPFはツチ主体だったとはいえ、全てのツチがこれに同調していたわけではありません。また、政治的にはともかく、日常的にはツチとフツが隣り合わせで暮らすことも当たり前のことでした。

しかし、極度の緊張感のなか、「RPFに占領されたらフツは皆殺しにされる」といった(意図的な)デマがフツ系住民を殺戮に駆り立て、女性も子どもも関係なく隣人をナタでたたき殺す、妊婦を殺して胎児を引きずり出す、逃げ込んだ教会に火をつけるといった蛮行が横行し、これにツチ系住民も抵抗し、民間人同士による地獄絵図が展開することになったのです。グラフで示すように、ルワンダの人口がこの年に異様な低下したことは、この大虐殺によるものです。

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フランスの関与とは

フランスが、その後批判されることとなる行動を起こしたのは、この直後です。

虐殺のピークが過ぎた1994年6月、フランスは「トルコ石作戦」を開始。これはフランス軍をルワンダに展開させ、「人道ゾーン」を設けて避難民の救助に当たる、というものでした。国連安保理の承認も受け、欧米諸国でも「非人道的な行いをやめさせる」ことに同調する世論が多数派を占めるなか、この作戦は実施されたのです。

この段階で既にRPFはルワンダ軍を圧倒し、国土の3分の2を制圧していました。それにともない、今度はRPFから逃れるように200万人のフツ難民が隣国ザイールなどへ逃れる事態となっていました。その一方で、フツの兵士や民兵は難民に紛れて国境を越え、難民キャンプを拠点として越境攻撃を繰り返し、ツチ住民に対する虐殺を行う交錯した状況にありました。

そのなかでルワンダに入ったフランス軍は、これら敗走していたフツ政府軍の管理地域、つまりRPFの管理の及ばない国土の3分の1に「人道ゾーン」を設置したのです。虐殺のほとんどがフツによるツチに対するものだったことや、ツチ系RPFの支配下ではツチ住民が保護されたことに鑑みれば、この人道ゾーンの設置は、奇異なものと言わざるを得ません。

さらに、先述のように、フツ兵士、民兵によるツチ住民への襲撃はフランス軍が展開していたなかでも発生したのですが、フランス軍がこれを積極的に取り締まったという事実は確認されていません。すなわち、フランス軍による「トルコ石作戦」は、結果的にフランスと良好な関係にあったフツ系政府・軍がザイールに逃れたり、ツチ・RPFに攻撃することをバックアップすることになりました。少なくとも、ツチの虐殺を阻止するものでなかったことは確かといえます。

「人道」とは何か

この際、批判されたのはフランス政府、あるいはフランス軍だけではありませんでした。フランス軍が設置した人道ゾーンで医療行為を担当したNGO「国境なき医師団」もまた、批判の対象となったのです。

日本でも名の知られたこのNGOは、1971年にフランス人医師クーシュネル氏らによって設立されました。彼らは1968年にナイジェリアで発生したビアフラ紛争に、国際赤十字から医師として派遣された経験をもちます。しかし、国際赤十字は設立以来、「内政不干渉」と「政治的中立」を旨としていたため、被害者への医療行為が内戦に関与する可能性への懸念から、ビアフラ紛争から撤退を余儀なくされました。この経験からクーシュネルらは、「緊急援助の実践」を最優先にするため、内政不干渉や政治的中立を捨て、世論を動かし、政府や軍隊、国際機関と連携をとる活動を重視する国境なき医師団を創設したのです。

方針をめぐる内部抗争の結果、創設者クーシュネルらは1979年に新世代メンバーに追い落とされ、新たに「世界の医師団」を結成しました。その後、クーシュネルは社会党ミッテラン大統領の下で人道大臣に就任し、フランス政府の要人として、1991年の湾岸戦争でのクルド人支援や、1992年のソマリアへの食糧支援などで、国連が人道援助を行うために介入する道を拓いていきました。これは、その後「人道的介入」と呼ばれる介入の一つの原型といえます。

これに対して、国境なき医師団の実権を握った新世代メンバーらは、公権力が人道の名のもとに軍事活動を拡大することに反対し、TVコマーシャルなどを通じて、クーシュネル大臣の方針を批判するキャンペーンを展開しました。ところが、1994年のルワンダ大虐殺が発生した際、それまでクーシュネルらの「人道的介入」を非難していた国境なき医師団は、むしろ他の団体に先駆けて、人道ゾーン内部での医療行為を担うことを約束し、フランス政府に軍事介入を進言したのです。

それまで「人道的介入」に反対するキャンペーンを展開していたにもかかわらず、180度異なる方針を打ち出した背景には、フランス政治の変化がありました。

1993年のフランス議会選挙で、保守系の共和国連合が勝利。大統領と首相が同時に存在する「半大統領制」のもとでは、大統領と議会多数派の党派が同一の場合、大統領制に近い機能が発揮されますが、両者が異なる「双頭制」、いわゆるコアビタシオンの場合、その政策運営は議院内閣制に近いものになります。つまり、革新派ミッテラン大統領のもとであっても、議会を抑えた保守派バラデュール首相の影響力が強くなりがちでした。

クーシュネルら世界の医師団が政権中枢部にある間、国境なき医師団は人道的介入に反対しました。しかし、1993年議会選挙の結果、保守系内閣が組閣された翌1994年のルワンダ大虐殺で、国境なき医師団は人道的介入を先導したのです。この転進は、人道的介入をめぐるそれ以前の対立が、政治的党派性以前の、かつての国境なき医師団の内部抗争の因縁を引きずった「同業者間の勢力争い」だったことを示すといえるでしょう。

結果的には、これによって「トルコ石作戦」が生まれました。既に述べたように、フランス軍の介入は、それまでフランスの政府・企業と良好な関係にあったフツ系政府を支援する側面が露骨にありました。人道の名のもとに、フランスの新植民地主義に加担したという組織内外からの批判を受け、国境なき医師団が指導層の交代を余儀なくされたことは、不思議ではありません。

ルワンダの「独立」

いわば国家ぐるみでルワンダ大虐殺に加担したことを、フランスの歴代政権はトーンの差はあれ、基本的に否定し続けてきました。これに対して、冒頭で述べたように、フランスを糾弾するルワンダの声は高まりこそすれ、収まることはありません。

1994年7月にRPFが首都キガリを制圧し、フツの政府・軍が逃亡したことで、内戦の大勢は決しました。その後、RPFを率いていたポール・カガメ(ツチ)が副大統領に就任。フツのビジムング大統領を掲げ、フツとツチの遺恨を超えた国民融和をアピールしてきました。2000年にカガメが大統領に就任した後も、基本的に同様です。ただし、選挙は実施されても、政党に衣替えしたRPF以外が勝つことは事実上あり得ず、限りなく一党制に近い体制といえます。

近年、ルワンダ政府は「アフリカのシンガポール」を目指す方針を掲げています。国土面積が狭く、アフリカ一人口密度が高いルワンダでは、これまでの農業中心の経済からの脱却が欠かせないため、収益性の高い金融、通信、運輸といったサービス産業を国家レベルで育成していこうというのです。

ただし、ルワンダ政府の「アフリカのシンガポール」というスローガンは、経済的な側面だけでないといえます。

2008年にはフランス語だけでなく、英語も公用語に加えられています。国際的なビジネスシーンにおいて、フランス語より英語の方が圧倒的に一般的であることは、言うまでもありません。しかし同時にここからは、フランスの圧倒的な影響下から離脱する意思もうかがうことができます。

シンガポールは経済面で非常に自由な国ですが、政治的には全く不自由な国です。一部で「明るい北朝鮮」と呼ばれる所以です。一方で、シンガポールは西側先進国と政治的に距離を置く方針でも知られます。所得水準で先進国並みになっているにもかかわらず、先進国クラブであるOECD(経済協力開発機構)に加盟しないことは、その象徴です。そして、中国系、インド系、マレー系など多様な文化集団を抱えながら、いずれの母語でもない英語を公用語にしていることは、個人の努力と才能で道を切り拓ける状況を作っています。以上に照らし合わせてみたとき、現在のルワンダ政府が目指すところがうかがえるのではないでしょうか。

もちろん、政府に批判的な言動が取り締まりの対象になるといった点において、その方針は西側先進国、なかでもフランスが「公式に」求めるところとは異なります。しかし、その方針を生み出す助産師の役割を果たしたのは、他ならないフランスだと言うこともできます。

「声なき者」の声

そしてまた、注意すべきは、ルワンダに限らず、かつて圧倒的な政治・経済力の格差から「声なき者」と扱われていたアフリカも、現代では声をあげる機会を多分にもっている点です。

ICTの普及が、情報発信の多元化を促したことは、言うまでもありません。のみならず、「最後のフロンティア」として経済的関心を集めることで、アフリカにこれまでになく投資が集まる状況は、「何があっても先進国との伝統的な関係にとどまる」以外の選択をする機会を提供しています。この状況下、巨大メディアを擁する欧米諸国の見解が「国際世論」に大きな影響を持つこと自体は確かですが、これまで「声なき者」だったアフリカも声をあげ始めているといえるでしょう。

ただし、従来の西洋中心史観から抜け出した様々な意見が噴き出すことが、常に好ましい状況か否かは、一概には言えません。近年のアフリカで同性愛を取り締まる法令が急速に普及するなか、政策決定者たちは「欧米的価値観の否定」を掲げることが珍しくありません。これはいわば、ヨーロッパからの行き過ぎた同化圧力の反動がアフリカで表面化していることだけでなく、反欧米感情が個人の権利を制約することを正当化する傾向を示しているといえるでしょう。

いずれにせよ、「世論」が多元化するなかで確かなことは、各国政府がこれまで以上に、自らの行動に対する説明責任を、国内だけでなく国際的に求められるシーンが増えるということです。これはひとりフランスだけの話ではありません。

ルワンダ大虐殺から20年の節目を迎えた中でのルワンダ、フランス双方の外交対立は、アフリカとヨーロッパ諸国、あるいは開発途上国と先進国が迎えつつある節目をも象徴するといえるのです。