『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)が、アート関連本としては異例の反響を呼んでいる。発売即重版が決まり、Twitter上やトークイベントを通じて発売前から現在に至るまで、多数のアート関係者や研究者を巻きこんだ議論が継続中だ。

「地域アート」とは、瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭をはじめとする、地域密着型のアートプロジェクトのことである。「地方創生」が叫ばれる昨今、ますますさかんになってきているのだが――この本は必ずしも地域アートを称賛する本ではない。

たとえばこの本では、以下のような批判的な主張がなされている。

・「地域アート」は、村上隆氏が活動のフィールドとしているような、市場原理で動くギラギラとしたワールドワイドなアートマーケットとは別種の、公共機関と日本独自の芸大人脈が結託したガラパゴスなものである。

・しかし市場原理否定派の芸術家や研究者が関わっているはずの地域アートにおいては、結局のところ、芸術が地域活性化や経済効果を生み出す道具に使われているというねじれがある。

・作品内容から見ても、美術館をはじめとする既存の“制度”を破壊しようとして野外で作品を展示したり、後世にまで残る作品ではなくプロセスやパフォーマンス自体を芸術とする、といった特徴を持っていた、いわゆる1968年的なもの(実験的なもの、前衛的なもの)が、行政の地域振興・地方創生を望むロジックによってスポイルされた「前衛のゾンビ」と化している。

税金が投入され、地域住民を巻きこんでなされる地域アートは地方経済にとって、あるいは芸術にとって意味があるものなのか――編著者である批評家・藤田直哉氏に、その問題点と可能性を訊いた。

■「作品鑑賞」から自然に触れることまで含めた「体験」へ

――僕は地域アートのイベントに行ったことがありません。正直なところ、どんな感じなのでしょう。参加している地域住民はアートというより単に「にぎやかし」だと思っている、という話も本には出てきていました。その地域に住んでない人が行ったとき、どう感じるものが多いですか。

藤田:最初に、自己紹介を。編著『地域アート 美学/制度/日本』(堀ノ内出版)という本を2016年3月10日に刊行しました。これは、瀬戸内国際芸術祭など、各地で起こっているアートイベントなどを批評する本です。地域と強く結びついたアートを「地域アート」と呼び、この現象を分析してみています。

瀬戸内国際芸術祭は百万人以上の来場者があったとされています。なので、社会現象としても、ビジネス的な観点からも、無視できないものではないかと思います。

で、面白いかどうかですが、モノによるんですが、行けば結構面白いと思いますよ。「大地の芸術祭」だったら、棚田の美しさに感嘆したり、山道で迷って面白かったり、坂を上って有酸素運動になりますから、それらの総合的な体験としては悪いものではないですよ。未体験なら、経験してみて損はしないと思います。美術館で目を中心にして静かに鑑賞するのとは質の違う芸術経験ができて楽しいですよ。

――ああ、岐阜県にある「養老天命反転地」みたいな、自然を活かしたアート空間ですか?

藤田:体験の質としては近いかもしれません。ただ、「養老天命反転地」は荒川修作さんとマドリン・ギンズさんの作品として全体があるのに対して、芸術祭の場合は、いろいろな作家の集合体だし、「養老天命反転地」のように作品としてのテーマパークを丸ごと作り上げるというよりは、そこに既にあるものを生かすという場合のほうが多いです。

『地域アート』で問題としているのは、そのような環境や枠組みの中で見られる個別の作品の「クオリティ」はいかなるものかということですよね。風景の美しさとか、有酸素運動の爽快感や、観光の楽しさと複合して作品があるわけで、自立した「作品」として判断されるべきかどうかも難しい。そういう変化が観察できると思い、美術の新しいフェイズとして「地域アート」があるのではないかと考えました。

――ある部分は人工的なアートだが、そうではない野外アスレチック的な娯楽の部分もあると。

■地域アートが地方創生・地域振興に使われる理由――原発の代替物としての芸術

――経済的な面から見れば、地方の資源や自然を活かして観光客を呼び、地元民同士で交流もしてみんなでお金を落とそう! という施策以外のなにものでもないわけですよね。

これっていわゆる「聖地巡礼」ブーム以降よく聞く「アニメで地域振興」という話とどう違うんでしょうか。

藤田:ある部分では、同じですよね。ツーリズムと別のジャンルが合体した例と考えれば、ほぼ同じ。しかし、それ以上に、同時代の感性の変化を反映している部分もある。

大きく言って、音楽や映像作品の収益が「体験型」に移行しているのと同じ根を持つ現象であると思うんですよ。インターネットや情報が流行したゼロ年代の、身体性のない時代の後に来た時代。身体を使って、現実の空間を共にする「体験」や「コミュニケーション」への渇望が、背景にあるのではないかと考えています。(これと似た見解を、パブロ・エズゲラも『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』で書いています)。人間同士の、身体を伴った「つながり」それ自体に、価値(金銭の発生する場所や、美的な中心)が移行していくのは、インターネットなどの「ソーシャル」に飽き足らなくなった世代の感覚だと思います。AKB48の「握手会」なんかもそうですね。

地方創生の手段であるという点でも「聖地巡礼」などと同じ側面を持っています。安倍政権は、地方創生を謳っているし、実際に地方の衰退は著しいので、様々な策を打たなければならないと当事者たちが思うのは当然のことであると思われます。それで、地域資源を発掘し、アピールし、観光客を増やしたり移住者を増やしたり、産業を活性化させたり若者の流出を避けようという願いが込められているという点では、同じでしょう。

――地域アートには、地方と中央の複雑な関係が反映されているという意味で、社会学者・開沼博さんの『フクシマ論』と通じるものがあるとも思いました。

地方は中央の文化や経済に憧れがあり、中央は地方のその願望を利用し搾取することによって、互いに依存する関係になっています。地域アートで言えば、「芸術」というかたちで、芸大の偉い先生や有名な作家が地元に来てくれることで地方公務員や政治家、地元在住のアーティストのプライドは満たされ、地域に多少なりともお金も落ちる。他方で、中央の側の作家などは東京でスタッフを雇っていたら金銭的にペイしないような大規模プロジェクトを、地域からボランティアを吸い上げることで成し遂げられ、実績づくりにもなる。

地方でアートプロジェクトをやるにあたっては、予算の関係からいわゆる「やりがい搾取」(「お金は払えないが楽しいぞ」とか「君の人生にとって意味があると思う」といったかたちで、金銭以外の報酬を示すことによって低コストで人を集め、あたかも自発的にそうしたかのように当事者には思わせながら、使用者側にとって体よく働かせる手法。ブラック企業がよく使う)が必要なわけですよね。美学研究者の星野太さんは、「関係性の美学」という美術界発の概念が「やりがい搾取」を正当化するのに都合がよかったので、そのための道具に使われたのではないか、と指摘していましたよね。

地域アートが特異なのは、地方と中央のみならず、地方を活性化させたいという行政的なロジックのために美術界のロジックが使われている点、行政と芸術にも共依存関係がある点だと思います。

藤田:「関係性の美学」はニコラ・ブリオーが言ったものですが、そういう悪用の側面はありますね。瀬戸内とか越後妻有とかの成功例に倣って、あちこちで地域アートが行われるようになると、搾取の道具というか、「口実としてのアート」みたいな例が随分と見られるようになってきました。「地域活性化」などに役に立っているならいいんですけどね、もっとエゲつない感じのことが起きていて。さすがに「これはアートじゃないんじゃないの?」って、当事者たちも疑問に思い始めてきたみたいで。現代アートで「これはアートじゃない」と発言するのは「わかってない」ってなるので、なかなか言えないんですよ。でもそれを悪用しているような例も見られる。だから、アートなのかどうか、質が高いのかどうかなどをはっきりさせる基準を作ろう、という問題意識はあります。

――「この本は3・11以後のアート論でもある」と藤田さんは言っていましたが『フクシマ論』的な「地方と中央の共依存」を再考させたい、という文脈からですか?

藤田:ええ、一つはそうですね。もちろんそれだけではなく、東日本大震災は、地方のことを多くの人間が真剣に考えるようになる契機のひとつになったと思います。福島なり東北なりでは、移住などが問題になった。あるいは、本当に集落が壊滅するという状態が生じた。

そこで、土地なり、コミュニティなり、つながり(絆)なりというテーマや、「アーカイブ」(保存)などが、美術において全面的に出てきた感じがします。

――互いに利権やプライドを満たし合う経済的・業績づくり的な面のみならず、アートのテーマから見ても「3・11以後のアート」であると。

藤田:多くのアーティストが東日本大震災に対応しようとしたときに、地域アート的な技法が用いられているように見えたというのも、本書が「3・11以後の美術」論としても読めるかもしれないと思った理由のひとつでもあります。

――地域アート的な技法と言うと?

藤田:参加型、ワークショップ、リレーショナル、ソーシャリー・エンゲイジド……

――ああ、ツリーハウスをつくるものとか。

藤田:ツリーハウスもそうですね。あるいは、建築家の伊藤豊雄さんらが被災地に作った「みんなの家」とか。これは建築に分類されていますが、金沢21世紀美術館で「3・11以後の建築」展が行われたことが象徴的なように、美術か建築かの境も曖昧なんです。被災した人たちが集まって色々やりやすい「コミュニティ」や「コミュニケーション」を成立させることを主眼とした建築ですね。

地域アートで多く行われているのも、「コミュニケーション・コミュニティの造型」とでも言うべき事態です。関係性やつながりなど、目に見えなくて流動的なものに、美や芸術性の核心が移行しつつあるのだと考えています。それは、社会や産業の変化とも随伴した現象であると考えます。

――繰り返しになりますが、ハコモノという「モノ」からアートという「体験」に変わったわけですね。

また少しカネの話に戻します。この本の中で藤井光さんが「地域の死」という言葉を用いて論じています。地域アートでシャッター商店街などが舞台になるのはそこが近代の限界(経済政策の失敗、地方の荒廃)=「地域の死」を示す場所だからだと。そして地域の側は、生き残るために呼べるものがあるなら内実は問わない。なんでもいい。補助金が落ちてくるなら原発でもよかった。それが今はアートにすりかわっている、と。

美術家の川俣正さんのエピソードも引かれていました。地域の人が「芸術祭のおかげで元気になった」と言うのでどれどれと思って精神科医を連れてきて住民を診てもらったら躁鬱的な人が多く、しかもおおむねアートに興味はない、という結論になった(笑)。

じゃあなぜ今はダムや原発のような「ハコモノ」ではないのか。「ハコモノ」は立てたあとにいらなくなったり、維持管理にもコストがかかり、あるいは作るだけで環境破壊だ、といった批判がありました。だから今はアートプロジェクトのような「キエモノ」、単年度で予算が消化でき、ランニングコストがかからない振興策に税金が投入されるように変化してきたのだ、と。

これはエグい見立てです。

藤田:そうですね。予算面でも、メンテナンス面でも、安いじゃないですか、ハコモノを建てるよりも。そして、将来にわたってそこにあることを前提としていないわけです。これは明らかに、日本が経済と人口の面から衰退のフェイズに入っていることと関係しています。

――一歩引いて見ると、アートの名のもとにすごいことが行われていると思うんです。アートという冠をいったん外して俯瞰したほうが、外側の人間には興味深い。

藤田:衰退期の日本の地方における、壮大な社会実験ですよね。少子高齢化や低成長そのものは、日本だけで起きているわけではないので、この未曾有の成果そのものは、割と世界史に貢献しうるものなのではないかと思います。

誤解されると困るのですが、ぼくは東京主義ではないし、地方をバカにしているわけでもありません。出身が北海道なので、地方の衰退については、リアルに見てきています。おそらく聖地巡礼や、各地で行っている芸術祭でなんとかなるのは、一部の中核の都市だけではないでしょうか。たとえば、電車やバスなどの交通や、電線などのインフラがコスト的に維持できなくなってくる場所、人口がゼロに近づく場所は、どうしても出てくる。悲しいけれど、それは諦めなければならない。アートが、地域の死を看取ったり、アーカイブ化することで未来に誰かが参照したりそこにあった生活や伝統などを再生する可能性を提供することで「慰め」として機能せざるをえない必然性も、よく理解します(なぜアートがその役割を担うことになったのか、アートの目的はそれでいいのかというのは、問題として残りますが)。

「地域」という言葉を使ったせいか、これまた誤解を受けるのですが、この本は「地方」だけを扱っているわけではありません。東京オリンピック前後に、東京でも芸術祭を行う計画があります。このような地域資源を生かす、観光型で、コミュニティを活性化させたり経済効果を生むための芸術は、今後、東京でも行われるようになります。地方のほうがたまたま先に衰退しているので「地域アート」の実験場になっていて固有の問題がありますが、東京でだって地域アートは既にいくつも行われているんですよ。ぼくが「地域」という言葉で指しているのは、「地方」ではなく、東アジア全体を指すこともあれば、日本を指すときもあるし、東京や京都が単位になるときもあれば、足立区や、田端などが単位になるときもある。様々な解像度の全てを指して「地域」と呼んでいます。

「全てを一括して地域アートと呼ぶのは粗雑ではないか」という意見もあります。それは正しいと思います。それぞれに違うし、作品それ自体はぼくの論を裏切っています。しかし、「それぞれに違う地域」のオリジナリティを主張する状況が「同時に起こる」という現象を理解するには、とりあえず「地域アート」という枠組みを使うのが便利だと思うんですよね。

■SF評論家が現代アートに切り込んだ動機――門外漢だからこそできたこと

――話を藤田さん自身の方に少し向けます。そもそも藤田さんは美術の専門家ではなく、もともとはSF・文芸評論家ですよね。なぜ地域アートに興味を持ったんでしょう。

藤田:確かに、専門が何なのか、最近わかりにくくなっているような印象はあるかと思います。そこで説明を考えたのですが――ぼくは「同時代」についての評論家である、と自分を考えることにしました。もちろん古典も好きですが、同時代の文化・芸術に注目してしまうタイプの批評家である、と思っていただければと思います。

現代美術に関係する私的な履歴で言えば、ぼくの伯母が現代美術好きだったことの影響はあるかもしれません。伯母は『素材辞典』というソフトを開発していた会社の取締役で、その前はファミコンソフトを作っていました。その伯母が、10代のぼくをニューヨークのMoMAやフランスのポンピドゥーに連れて行ったことの影響は大きいですね。ぼくの中でハイアートとサブカルチャーの境界があまりないのは、その辺りに由来するかもしれません。

もうひとつは、研究領域である日本SFが、美術との影響関係が結構濃いものだった、というのもあります。日本SF第一世代は、小松左京が未来派の影響を、筒井康隆がシュール・リアリズムの影響を受けたりしています。こういうタイプの作家を研究してきたせいか、ジャンルを規定して限定して何かを論じたり思考したりする必要をあまり感じなくなったんですよ。

ちょっと話は逸れますが、初期の日本SFが面白いのは、それが総合的な文化運動だった点にあると考えています。彼らは、小説を書くだけでなく、ラジオの台本や、アニメの脚本も書く、マンガもやった。哲学もやるし、万博に絡むし、美術の影響も受ける。思想や宗教や文学理論も取り入れる。ハイカルチャーもサブカルチャーも、ジャンルもメディアも関係なく、「新しい何かを表現する方法」を模索している運動である、節操のなさに惹かれました。日本SF第一世代は、戦争を経験していますから、既存の表現の枠では表現できないいろいろなことをなんとか表現しようとして悪戦苦闘していた。

そういうものを研究していたせいで、現代の文化現象を見るときにも、あまりジャンルや枠を気にしないで見る視点が養われたのかもしれないですね。

――なるほど。とはいえ藤田さんは今も「アート関係者」ではないわけですよね。

門外漢なりに気になっていたことを突っ込んで地域アート論を書いてみたら、アート関係者から意外なほど賛同の声があがった、というのがこの本の成立のきっかけだそうですが、本を作っていくなかで地域アートに対する印象は変わりましたか?

藤田:そうですね、門外漢だったからこそ、利害とか人間関係を気にせず、タブーも知らなかったのが功を奏したのでしょうか、この書籍の元となった論考は驚くほどの反響をいただきました。

地域アートへの印象は、変わりましたね。基本的には、見た目が悪いとか、芸術じゃないんじゃないのかとか、泥臭くて前近代っぽいなぁという印象は今でも持っていますが、その中でも繊細に見ていくと、興味深く見る方法があるとわかりました。目に見える美しさではなく、「コミュニケーション・コミュニティの造型」に芸術の中心が移っていると考えればいいわけだし、そこでの様々な工夫や上手い下手の区別も多少は付くようになってきました。

反応については、ぼくの論考を、地域アートに対する初めての「批評」だと言ってくださった方がいて、それで考えたのですが――「批評」の定義次第なんですが――今までに地域で行われるアートイベントを語る言葉は、主催者側や運営する側、推進する側の言葉ばかりなんですよね。こうすれば地域はよくなるとか、ソフトパワーで地域活性化とか。いわゆる、問題点や可能性を「吟味する」という意味での「批評」というよりは、地域アートを普及・啓蒙するためのパンフレットに近い言説がこれまでは主流だったと考えてよいと思います。

――“ソーシャルグッド”的な匂いがする、うわべだけっぽいきれいごとが並んでいてつまんなそう……というのが、僕が地域アートに興味が持てない理由だったのですが、それはそういう「いかにも」なことを言って企画を通さないといけないくらい、地方にとって、あるいは日本のアート界にとってのヤバい現実があるから、ということなのかなと、この本を読んで認識を改めました。

藤田:会田誠さんは、そういう「ヤバい現実」にアーティストが直面するのは、作家にとっては有益なことだと対談の中で仰っていました。現状の地域アートは、日本という国家の衰退期に起きている様々な諸問題のひずみに対する、一時しのぎのパッチというか、鎮痛剤のようなものとして機能しているようにぼくは見えます。それこそが、現代の日本においてアートが背負わされた機能だというのは、同時代の現象として大変興味深いんですよ。たとえば、明治時代の、芸術や文学に期待された機能というのは、西洋にナメられないような立派なものがあると示すとか、国民の内面・精神を立派なものとして構築する、とかだったのと対比するとわかりやすいかと思います。

それで、「いかにも」なことを言わなければならない背景に「ヤバい現実」があるというのは確かですし、そういうことを言わないと巻き込めないというのもあると思います。さらに言えば、やはり「公共」の性質を持つので、なんか役人的な綺麗事っぽい言説になりがちな傾向もある。ぼくは、「なんかウソっぽいなぁ」と思って、「おかしいんちゃうか」って言っちゃう。それがたまたま「批評」と呼ばれているのでしょう。

――きれいごとが好まれる、で思い出したのですが、藤田さんがあとがきで自分はアートの門外漢として「よそ者、バカ者として振る舞った」と書いていて、それって東浩紀氏が「福島第一原発観光地化計画」などで言っている「観光者」的立場に近いのでは、と。そしてさらに言えば、その地域の惨状と表裏という意味では、ダーク・ツーリズムと地域アートはセットで考えたほうがいい。ただおそらく、ダーク・ツーリズムのほうは地域アートに比べれば日本では大規模には根付かない。日本人はきれいごとが好きだから。

藤田:そうでしょうね。どうも、ネガティヴなものが「存在しない」と思い込みたい、表に出さないようにしたいという「空気」の圧力が、この国にはあるような感じがしています。第二次世界大戦などもそれで失敗したんだから、いい加減なくなってもいいと思うのに、なかなかなくならないでしょうね。

そういう観点からすると、「福島第一原発観光地化計画」は、日本人が否認しがちな悲惨な現実を意識に突き続けるチャレンジとしては面白いものだったと思いますが、案の定批判を受けましたね。

今でも、瀬戸内国際芸術祭などでは、ハンセン病患者を隔離する病院だった大島が舞台の一つになっていて、それを主題化した作品もあるので、さりげなくダーク・ツーリズムとしても機能するようになっています。札幌国際芸術祭での炭鉱なども同様ですね。

――日本の地域アートで、たとえば海外のアルス・エレクトロニカやSXSWくらいエッジなイベント、外国からも観光客を呼べるものはありますか?

藤田:ベネチア・ビエンナーレとか、カンヌ国際映画祭クラスの、ってことですよね。うーん、まだ、ないと言わざるをえないかなぁ。これは芸術の枠を超えますが、コミケ辺りが実は一番近いような。日本はオタクカルチャーの国だと思われているんだから、それの世界的祭典をやればいいような気もしないでもないですが。

――極端なことを言えば、いっそ外国人に仕切らせたほうが、地域アートも海外からの観光客を呼べるかもしれない。経産省のクールジャパン戦略では「外国人が好きな日本」(しかし日本人からすると全然ピンとこない日本)みたいな路線も取り入れられていますし。

藤田:外国の人は、国内の人が思っているようなハイアートとサブカルチャーの区別をしていなかったりしますからね。研究者のスーザン・ネイピアなんて、大江健三郎と、村上春樹と、エヴァンゲリオンと、触手系アニメを同一平面で論じちゃう。

行政の中の人や、政治家の人たちだって、たぶん、そういうのをやれば面白いし、ウケるとわかっている人はいると思う(ぼくが出した例だけではなくて、もっといろいろとアイデアもデータも持っていると思う)。しかし、実現は大変なんでしょうねぇ。

――よく言われることですが、官僚や政治家も個々人ではおもしろいことも考えているけれども、組織レベルでは鈍重になってしまうという構図がここにもあると。

最後に藤田さんから地域アート界への提言や、地域アートに関心のない人たちへ一言お願いします。

藤田:せっかくこれだけの規模でやっているんだから、日本の美術史の一ページに残るだけでなく、未曾有の作品が生まれるような何かに繋がってほしいですね。それを行政の人たちや運営側も勇気を持ってやってほしい、一般の人たちも理解を持って寛容に見てほしい。国内だけじゃなくて世界中にアートイベントはあるんだから、かなりぶっ飛んでヤバイぐらいじゃないと、わざわざ海外からお客さんが来てみようと思うようなインパクトはもてないと思う。でも世界的に有名になれば、回りまわって自分たちが得するわけですから。文化や芸術、観光で外貨を稼ぐ文化国家の住人として、理解と寛容を。