運転手は福島からの避難者。熊本に捧げる5年前の「恩返し」

最終更新時間:2016/5/2 0:00

写真・画像Yahoo! JAPAN

キーポイント

  • 福島県からの避難者で、佐賀市に住み熊本地震の被災者支援を続ける運転手がいる。
  • 東日本大震災で人生観が一変。「当分佐賀に住む」と「故郷」への気持ちが変わる。
  • 熊本地震後は恩返しのため運転手仲間を誘い、支援物資の運搬役を務める。

 支援物資を届けるトラック運転手は、救援に大きな役割を果たします。自治体が指定する避難所とは別に、お年寄りの施設などが自主的な「避難場所」になり、物資が届かないケースもあります。ヤフー社員らと物資を運んだ運転手3人は、隣の佐賀県から駆けつけました。呼びかけ人は、福島からの避難者でした。東日本大震災から5年。トラックに寝泊まりしながら、献身的な「恩返し」を続けました。(ヤフー株式会社 社会貢献推進室 森禎行)

行政の目が届きにくい場所に運び、トラックで寝泊まり

 NPO法人「アジアパシフィックアライアンス・ジャパン」(佐賀県)の支援物資が、熊本県益城町の倉庫に運び込まれました。佐賀市のトラック運転手・菅名(すがな)紀之さん(42)=写真左=らのグループは、物資をトラックに積み込み、お年寄りの施設など行政の目が届きにくい場所に届けます。

 ユニクロのシャツや下着、グンゼの肌着、アスクルの日用品___。支援企業によって、倉庫に届くものが連日変わります。避難場所のニーズを事前に聞き取り、適切な施設に運び届けます。

 益城町内は倒壊した民家のがれきが散乱し、通行止めも多く、運転が難しいエリア。慎重な運転で、避難場所に届けます。「ありがとうございます。助かりました」と声をかけられました。

 一日の積み下ろしが終わった後、宿泊場所は2トントラックの中です。最初は運転席で寝ましたが、サイドブレーキが当たり、背中を痛めてしまいました。そのため荷台に寝袋で寝ることにしたら、「痛みは治った」と笑いながら話しました。

「佐賀に住む」変わる思い

 5年前の3月11日、菅名さんは勤務していた福島県葛尾村の牧場にいました。福島第一原発から約20キロにある田村市の自宅は裏山が崩れ、住めなくなりました。仙台市に約1カ月家族と避難し、妻が妊娠していたこともあり、佐賀県に移り住むことにしました。縁もゆかりもない土地でしたが、被災者の受け入れ体制が早かったのです。

 菅名さんの父は震災1年前に亡くなり、ちょうど1周忌が終わったばかり。相馬市の実家は津波で流され、墓は地震で倒れました。「おやじの墓がとても気になる」と後ろ髪をひかれる思いで、避難しました。帰るべき「故郷」はなくなりました。

 翌年の2012年7月、九州北部は豪雨となり、死者30人の惨事になりました。菅名さんは「支援にいきたい」と心が動きましたが、行けませんでした。「佐賀で生活基盤をつくるため、がむしゃらに働いていた」。後悔の念が残りました。
 その後、菅名さんは、佐賀市が拠点のNPO法人「地球市民の会」の避難者支援を受け、避難者同士の交流も始まりました。

 当初は、ノリ漁の仕事や農業法人の仕事をしていました。「家族が帰る場所は福島」と決め、「『会社員』にはならない」と考えていたのです。それゆえに雇用期間が限定された仕事を選んでいました。
 しかし、福島の状況は見通せません。「福島にはすぐ帰れない」との思いが強まってきました。

 3年前、大手家電量販店のトラック運送業務を始めました。今年4月、震災当時は赤ちゃんだった長女が、佐賀市で小学校に入学しました。子どもは小1と4歳、そして8月に第3子が生まれます。「子どもが大きくなるまでは、佐賀に住む」。思いは変わりました。
 菅名さんはトラックを購入。いまでは、佐賀弁も九州人と変わらないほどです。

「運ぶものがなくても熊本へ行く」

 熊本地震の翌週、「地球市民の会」などが物資支援を呼びかけました。菅名さんは「行かないわけにはいかない」とすぐ決意しました。「『(運ぶ)ものがない』といわれても、熊本にきてましたね」。

【支援物資無事に届きました!】(「認定npo法人地球市民の会」Facebook)(4月19日)

 おむつ、赤ちゃん用品や子供用品、飲料水、トイレットペーパー。トラック2台分程度の量が集まる想定でしたが、6台分以上も集まりました。



 菅名さんは、トラック運転手の仲間に声をかけました。2人が賛同し、熊本入りしました。

佐賀から駆けつけた運転手トリオ

 運転手3人の1人、坂本智彦さん=写真右=は「熊本にきて絶句した」といいます。佐賀市も「本震」は震度5強と強い地震でしたが、熊本市や益城町の光景は、想像を超えていました。人生観が変わる光景に直面しましたが、坂本さんは「もの運ぶ重要性を感じた。物資が届かない場所がある」と心を奮い立たせました。

 物資支援で課題も感じました。「SNSで『足りない物資があります』と呼びかけても、車が出発するのは早くて2日後。実際に届けると『もういらない』という場合もある。状況が毎日のように変わっている」と話します。

 菅名さんが一緒に仕事をしたスタッフの中に、宮城県気仙沼市出身の方がいました。「東北なのか!」。思わず握手を交わしました。東北と熊本。1000キロ以上離れていますが、不思議な縁が深まっています。

「恩返し」、それだけです

 菅名さんは、家族への接し方も変わりました。東日本大震災の前は「トラックの仕事で1週間自宅に帰らないでも平気だった」といいます。今回は違います。熊本で寝泊まりしながらも、「佐賀に帰って、子供の顔を見てきたよ」という日も。



 東北と熊本。同じ被災者として思うことがあります。「避難が長期化すると『避難所にいるだけで何もしてない』という声が出てくる。ちがうんや。どうしていいかわからなくなるんです」。
 今回の地震では、車中泊が話題になりました。5年前の3月11日の夜、菅名さんも自宅では寝つけず、車中泊でした。「車で泊まっている人には、『とにかく体を休めてくれ』としかいえない」といいます。

 4月いっぱいは、熊本にいる予定です。
 「自分は何ができるかといったら、同じ境遇の人に、自分がしてもらったことを、しているだけ。恩返し、それだけです」。顔が少しほころびました。