初めて故郷が恐ろしいと感じた――。
福島第一原発事故で人が住めなくなった福島県双葉町に一時帰宅した際の心境を町民はこう語った。町ごと避難してから11年半後の昨年8月、ようやく町民の帰還が始まった町の姿はどうなったのか、過去と今を比較してみた。
普段顔を合わさない知人と会えた秋祭り。
思い出の景色が震災を機に様変わりした。
人が住まなくなって11年。町の姿はどうなってしまったのか。
かつてと今の双葉町を見てみよう。
「怖い」と感じた地元が
「結局、好きなんです」
ファストフード店店長
双葉町でファストフード店の店長を務める山本敦子さんは「この町が好きなんです」としみじみ語る。だが、生まれ育った町が「怖い」と感じた瞬間があった。震災から1年半後に夫と2人で当時避難していた横浜から一時帰宅したときだ。
「恐ろしいんですよ、なんにもないから。だれもいないから。シーンとした町は恐ろしいと思った。あのときは、線量計を首に下げていたので、音がピーピーと鳴って、数字がどんどん上がると焦っちゃって。ほぼ何も持って帰らなかった」
その後も一時的に戻ることもあった山本さんは、弟が東日本大震災・原子力災害伝承館に隣接する産業交流センターに出店を希望したことがきっかけで、双葉町で働くことを決意した。
「最初、私は関わるつもりはなかったのですが、オープンが近づくと、復興のお手伝いができないのは後悔すると思ったんです」
双葉町にいるから
感じられること
山本さんは出会いを大切に生きてきた。
「人の縁は面白いと思う出来事がありました。何十年も会ってなかった昔の同級生が来てくれたり、取材を通して芸能人と知り合ったりすることもあるんです」
昨年8月に町の一部地域で避難指示が解除されてからは、人の息づかいも感じられる。それでも復興は「まだ半分もいってない」と山本さんは言う。
「普通に生活ができる状況になったら、『戻った』と思うのかもしれませんが、今は戻る途上です。でも私は都会では味わえない双葉町の四季のにおいが好き。双葉町にいると、毎日昔のことを思い出すんです。結局、この町が好きなんですね」
双葉町を思う人が
つくり上げる町
「解除されたことはうれしく思います。何十年後になるかもしれないと震災から数年後に思っていたので」と胸の内を明かす高崎丈さんは、双葉町には昨年8月に帰還困難区域の一部の避難指示が解除され、居住が可能になったが戻っていない。原発事故で避難を余儀なくされてから初めて双葉町に戻ったのは2年後。当時の様子をこう振り返る。
「まったく違う世界で、時間が止まっているようでした。だれも住んでいないので、音がしないんです。同じ町なのに同じ町ではないような。ただ、海の香りだけはして、懐かしかった」
その後は数年に1回のペースで戻り、避難指示が解除されてからは訪れる頻度も多くなった。
故郷を離れても
活動を続けるわけ
高崎さんは、町の「復興」をこう考えているという。
「『復興』は元に戻す、『再生』は新しいことを作り出す。どちらを目指すのかは、その人の考え方によって変わってくる。僕がやることは再生するための活動だと思っています」
その言葉通り、高崎さんは壁画アートを手掛ける集団とのプロジェクトなどで双葉町を後押ししている。
そうした先に故郷に帰る日はあるのか聞いた。
「『いつかは帰りたい』とは今は言えない。ただ、僕はどこに住んでいる人であっても双葉町を思う人がつくり上げる町が理想的だと思っています。そうした地域と関わる関係人口を増やしたい。最終的には事業をするために帰るかもしれません」
最後に、双葉町を一言で表現してもらった。
「『可能性のある町』。震災を経て、ゼロからスタートしたので、世界でも注目されている。発信次第によっては、海外からの注目も集められると思う。そうした意味では、僕は今のお店で結果を出して、双葉町に注目が集まるように頑張らないといけないです」
福島第一原発事故から11年がたち町の姿や有り様が大きく変わっていた双葉町の「現在地」はどうなっているのか。双葉町の基本情報を振り返りながら人の流れのデータや居住率から探ってみた。
人の流れは?
双葉町の住民の帰還が始まったのは双葉駅前を中心とした復興拠点。住民の帰還に向け除染が集中的に行われてきた。
避難指示が解除された区域には東日本大震災、原子力災害を後世に継承・発信しようと作られた「東日本大震災・原子力災害伝承館」があり、20年9月の開館以降、多くの人が来訪。また、津波の被害を受けた沿岸では復興祈念公園の整備が進められている。
町の南東の広大なスペースは中間貯蔵施設として、以前の住民から提供された。除染で取り除いた土壌や放射性物質に汚染された廃棄物を最終処分するまでの間、保管されている。
ヤフーが提供している「DS.INSIGHT」というビッグデータ活用サービスを使い、一定時間滞在した人口を可視化したヒートマップを双葉町に掛け合わせてみた。
復興拠点を中心とした生活のスペースには人の流れが少ないことがわかる。一方で居住者がいない伝承館を中心としたエリアに人の流れが集まっている。
また、中間貯蔵施設内に南北に延びる一直線の「人流」は作業員によるものとみられる。
22年11月末現在の双葉町の居住者数はおよそ50人。居住者を住民登録者数に基づく人口で割った「居住率」 を福島県の浜通り地域の他の自治体と比較してみると、双葉町だけ1%にも満たず、際立って低い。これは、町民や移住者などが本格的に住みはじめたばかりだからである。
たとえば2017年に帰還が始まった浪江町、2019年から帰還が始まった大熊町も3か月後の居住率は1%前後でほぼ同じような状況だった。復興拠点を中心とした地域ににぎわいが戻るのは、これから。ようやく「復興」が始まったところなのだ。
- 昨年8月30日に一部地域で避難指示が解除、町役場や町民が帰ってきました。帰還が始まったことに対する感想をお聞かせください。 被災自治体の中で最後まで全町避難を続けていた当町の住民帰還が始まり、ようやく復興をスタートすることができたという思いです。
これまで長期間に及ぶ避難生活の中で町への帰還を望みながらも亡くなってしまった町民も多く存在します。震災前の環境に戻すことはできませんが、多くの町民が帰還を望むような魅力のある新しいまちづくりを進めていきたいと考えています。 - 帰還に際し、印象に残っていることなどはありますか? 震災直後は、数十年は町へ戻れないという意見もありました。いつになれば双葉町へ帰還できるのか不安もありましたが、これまで多くの方の支援をいただきながら徐々に復旧・復興が進み、帰還が実現したことは誠に喜ばしいことです。
- 2021年に行われた住民意向調査で「戻りたいと考えている」と回答した人が微増、初の11%台に上りました。そのことをどのように受け止めていらっしゃいますか? この回答結果は喜ばしいことです。復旧・復興状況が目に見える形で現実的に進んでいることが評価されたからではないかと推測しています。一方で、避難されている町民の方は避難先での生活が安定している部分もあると思われ、60%以上が避難先で自宅を再建されています。避難されている方それぞれに家庭の事情があり、すぐに帰還を判断するのは難しいのではないかと考えています。
- 現在の双葉町の居住者人口は想定と比べて多いと感じていらっしゃいますか?また、今後どのように双葉町に戻ってくる町民を増やしていくお考えでしょうか。 2023年1月上旬現在、約60人の方が双葉町内に居住しています。この人数は想定内の人数です。この中には、被災家屋を改修した方や災害公営住宅や再生賃貸住宅などに入居した方もいれば、復興に関わりたいなどの理由で町外から移住された方もいます。
新たに整備された中野地区復興産業拠点には24社の企業立地が決まっており、「働く場」があります。今後はここで働く方の多くが居住していただけると期待をしています。また、居住者に住んでよかったと思われるような魅力ある新しいまちづくりを進め、復興を一層加速させていきたいです。 - 今後、町民の帰還に加え双葉町を復興させていくための道筋をお聞かせください。 あの震災からまもなく12年を迎えようとしていますが、双葉町の復興はようやくスタート地点に立ったばかりです。昨年は町民の帰還が始まっただけではなく、町役場の業務も新庁舎で始めることができました。町内には徐々に人のにぎわいや活気が戻りつつありますが、町の復興にはまだまだ時間がかかります。これからも町の復興に全力で取り組みますので、双葉町にお越しいただくなど、様々な形で双葉町の復興を応援していただけると幸いです。
わたしたちにできることは何があるだろうか?
伊澤町長や町民の2人に
全国へ届けたい思いやメッセージをフリップ
に書いてもらった。
「双葉町を訪れて空気を感じてほしい」
全国に届けたい思いはありますかという問いに対し、「ペンギン」を営む山本さんはこう答えた。
双葉町の空気とは何か。空き地が点在する町並み、「あの日」のままの家や車、そして少しずつ前に進む町の姿だ。悲しみと事故を乗り越える気持ちが混在した町の雰囲気は当時と今の写真だけでは伝えきれない。
今、現地を訪れて「町の現在地」や東日本大震災・原子力災害伝承館で2011年からの歩みとそこからどのようにこの地域で何が起き、どう向き合ってきたのか、どうなろうとしているのか、見つめ続けることが大切だ。