Media Watch2019.03.18

少年院から南米へ——元ヤンキー記者「ブラジル番長」吉永拓哉さんに聞くサンパウロ新聞の73年

「ブラジルは、取材相手も記者もたくましい人ばかりですよ」

サンパウロ新聞の福岡支局長、愛称「ブラジル番長」こと吉永拓哉さん。元暴走族副総長で少年院に入り、南米に渡って記者となった、異色の経歴の持ち主です。

サンパウロ新聞は、約26万人が移住したといわれる世界最大の日系人居住地・ブラジルで、ニュースを70年以上伝えてきました。同紙は2019年1月に紙面を廃刊、現在はウェブ版で情報発信を行っています。

吉永さんの異色の経歴、またサンパウロ新聞の歴史とこれからを聞きました。

取材・文/鬼頭佳代(ノオト)

購読層の90%は75歳以上……「いつか必ずなくなる宿命だった」

――サンパウロ新聞とはどんな新聞なのか、Yahoo!ニュースへの配信の理由を教えてください。

1908年から始まった移民政策で、日本人はサンパウロ以外の都市やアマゾンなどにも居住地を作っています。サンパウロ新聞は、1946年10月の発刊から70年以上、ブラジル各地に住む日本人にニュースを届けてきました。

同時に、ブラジル以外の日本人にもブラジルの出来事やその良さを伝えていく使命があります。そのため、2013年よりYahoo!ニュースへの配信を始めました。どんなニュースが興味を持たれるかなどを見つつ、現在もブラジルのニュースを配信しています。

――2019年1月新春特集号で廃刊を発表されました。背景には何が。

移民政策は、1970年代に打ち切りになりました。そうなると、新しい日本人はあまり入ってきませんし、日系二世以降はポルトガル語ができるので、日本語新聞を読む必要がありません。

移住最盛期の1960年代にはサンパウロ新聞も約10万部発行されていましたが、2000年代には3万5000部に減少。特に直近10年で購読層がどんどん亡くなり、2018年の時点で購読者の90%が75歳以上になっていました。

つまり、サンパウロ新聞はいつか必ずなくなる宿命だったんです。われわれとしては、移民の最後の一人まで情報を届け続けるのを目標にしてきましたが、紙面を出し続けるには人件費がかかります。

発行回数を減らすことも検討したものの、採算が合わず、やむなく紙面廃刊を決めました。現在は、社長と元記者などの有志で記事を作り、ウェブを通じて情報を発信しています。

購読者の年齢が高いことを考慮して、相撲や野球、健康に関する記事も取り上げてきた

――苦渋のご決断だったんですね。1946年の創刊当時、ブラジルではどんな存在だったのでしょうか。

立ち上げのきっかけは、第二次世界大戦です。戦前までは、現地のニュースを伝える日本語新聞がいくつかありました。ところが、第二次世界大戦でブラジルが連合国についたため、日本は敵国になり、日本語の本や新聞の発行が禁止されてしまった。当時の日本語新聞は、全て廃刊です。

しかし、当時の日本人移民のほとんどは、ポルトガル語の新聞が読めない。インターネットのある今とは違い、簡単に情報が入ってこない時代。戦争の結果すら分からず、ポルトガル語のニュースを読んで負けたと主張する「負け組」と、日本が勝ったことを信じる「勝ち組」の間で争いが起き、20人ほどの日本人が亡くなる事件も起きました。

そんななか、創業者・水本光任(みずもと・みつと)さんが「正しい情報を伝えないといけない」という思いから、日本語を禁止していたブラジル政府と交渉し、サンパウロ新聞を立ち上げたんです。

ちなみに、僕が初めて南米に行った1997年頃は、まだNHKなどの日本のテレビが見られない状況。日本語新聞などの情報が、彼らの大きな楽しみの一つでした。

創業者の名前をとった「ミツト・ミズモト通り」にサンパウロ新聞社は位置している(吉永さん提供)

――どのように記事を制作していたのでしょうか。

日本語の面が中心ですが、ポルトガル語の面もあり、紙面は合計8ページ。平日の週5日発行していました。

サンパウロ新聞の記者が独自記事を作るのは、1ページ分です。ブラジルのニュースは、現地紙「オ・エスタード・デ・サンパウロ」や週刊誌「veja(ヴェジャ)」などの記事を翻訳。日本のニュースは、提携している毎日新聞や時事通信から選び、政治からスポーツまで幅広く掲載していました。

サンパウロ新聞編集部で紙面制作をする様子(吉永さん提供)

ブラジル国土は日本の23.5倍と広大なため、現地在住の日本人記者5〜6名でブラジルの各都市に支局を作っていました。福岡支局は、日本国内でブラジルにまつわる出来事を取材しています。僕自身も2年に一回はブラジルに滞在し、取材しています。

ちなみに、サンパウロ新聞があるミツト・ミズモト通りは、世界的に見て治安が悪いサンパウロ市のなかで、さらに5本の指に入るほど危険なところでした。サンパウロ新聞社ビルの隣のバーで飲んでいた時に強盗が入ってきて、目の前で警察との銃撃戦になったことがあります。その時は、間一髪助かったのですが、自分に向けて放たれた弾丸は記念として財布に入れていましたね。

どの記者もみんな、一度くらいはナイフかピストルで襲われていると思います。

――ご無事で本当によかったです……!

暴走族から少年院、そして南米で記者になるまで

――記者になるまでの経緯を教えてください。

僕は若い頃、かなりやんちゃで。中学校は、2年生で先生に「来ないでくれ」と言われてから、行っていません。

卒業後は1年遅れで定時制高校に入りましたが、暴走族にも入ったので、夜は授業に出ず、暴走活動にのめり込んでいたんです。結局、けんかで退学。その後、覚醒剤使用の容疑で捕まって、19歳で少年院に入りました。

副総長の肩書で暴走活動にのめりこんでいた頃の吉永さん(吉永さん提供)

――そこから、どのように南米につながるのでしょうか。

少年院で面会に来た父の「ブラジルに行けば、日本の学歴は何も関係ない。本当のリスタートができる。南米で人生勉強してこい」という一言でした。

父は大学生の時に、ブラジルのアマゾンに貨物船で渡った経験があり、移住を望んだものの、家業を継がねばならず戻ってきた人でした。僕を責めることなく、大学の学費代わりに、南米行きの航空券と滞在費を渡してくれました。

当時は、少年院を仮退院したばかりの保護観察中。そんなタイミングで海外に渡るのは、異例でしたね。保護司の先生に月2回手紙を書くという約束で、20歳で南米に渡りました。ただ、「正直行きたくなかった」というのが当時の心境です。

――南米ではどんな経験をしたのでしょうか。

はじめは父の知り合いを頼ってエクアドルへ渡り、その後はペルー、ブラジルを働きながら放浪しました。

1998年、南米で初めて働いた場所はエクアドルのバナナ農園だった(吉永さん提供)

3年間の放浪生活のなかで、衝撃をうける出会いがたくさんありました。例えば、エクアドルでバナナ農園を経営する半沢勝さん。彼が両親や兄弟と一緒に南米に渡った1960年代、熱帯雨林地方はまさに原始林で、「緑の地獄」と呼ばれるほど過酷な場所でした。先住民と暮らしたり、灼熱(しゃくねつ)のなか胴回りが10メートルくらいの大木を手作業で切り倒したり、マラリアにかかってどんどん人が亡くなったり……。

――現代では想像もつかない世界です。

1年かけて原始林を切り倒し、いざ農園を作ろうとした矢先、お父さんが交通事故で亡くなってしまいます。長男の半沢さんは、まだ20歳だったそうですが、文字通り何もない土地で家族を支えないといけなくなりました。

半沢さん(写真・右から二番目)の写真は今もデスクに入れている

――なんて過酷な……。

移民の人たちは本当にたくましく、人生がものすごく濃いんです。

アマゾン奥地にある日本人会館に置いてあった記録帳を資料として読んだ時に「無に帰す」という言葉が書かれていました。当時の移民には、日本の社会保障なんか一切ない時代。アマゾンの奥地でどんなに一生懸命頑張っても、日本にいる誰もその人のことを知らない。

死ぬと遠い異国の土となるだけ。そういう意味が込められていました。だから僕は、彼らの生きざまを残していく人が絶対に必要だと思っているんです。

僕は、現地で彼らと寝食をともにしながら、移民のご苦労と生きざまを本当に見てきた「最後の日本人」だと自負しています。その後、サンパウロ新聞に入ったのはたまたまですが、その生きざまを伝えていける仕事に巡り合えたと感じています。

積極的にブラジル移民の方々の話をする機会を作ってきた吉永さん(吉永さん提供)

――吉永さんは、どんな記事を書かれているのでしょうか。

入社した2004年からは社会部記者として、ブラジルの日系社会をメインに取材していました。日本の縮図のようなもので、総理大臣や厚生労働大臣にあたる役割の人もいるし、都道府県ごとに県人会もあります。そのなかのさまざまなニュースを追っていました。

記者は多くても7〜8名、少ない時には2人しかいませんでした。その体制で、新聞見開きを埋めないといけない。夕方5時に入稿しないといけないのに、3時半になってもトップ面が決まらず、慌てて記事を書かされるなんてこともざら。文章力は相当鍛えられましたね。

紙面では、アマゾンの日本人学校、民芸品を売っている日本人夫婦、南米で初めて日本人移民が建てたペルーにある最古のお寺、エクアドルのバナナ農園……。南米の移民の現状も伝えてきました。その後、2006年に福岡に戻り、現在に至ります。

取材した移民の一人・原田清子さん。1933年にブラジルに渡った原田さんは、アマゾン日本移民の生き字引的存在だったという(吉永さん提供)

今後は、世界の日本人に向けてブラジルの情報を発信したい

――ウェブ版はどう運営していく予定ですか。

ウェブ版になった現在のサンパウロ新聞

これからは特に、ブラジルに興味を持っている海外在住の日本人に向けた情報を発信しようと思っています。

ウェブ版は、ブラジルに次いでアメリカからのアクセスが多い。海外在住の日本人は、自分が住む国だけでなく、他の国にいる日本人や日系企業の動きに関心があるのでしょう。引き続き、リアルなブラジルの情報を、新しい読者層に向けて発信していきたいです。

また、ウェブではお金の流れも変わります。資金面も含めよい運営方法を考えているところです。

――吉永さん個人としては、今後は何を?

引き続き、日本国内からブラジルの情報を発信していきます。

また、10年前に少年院出身者をサポートする全国ネットワーク団体「セカンドチャンス!」を有志たちと共に立ち上げました。まっとうな道で頑張っている少年院出院者たちがつながり、お互いに支えあう自助グループです。

ほかにも、福岡の天神にある繁華街「親不孝通り」の町内会長として、魅力あるまちづくりや、まちの情報を伝えるインターネットテレビ「親不孝通りTV」の運営もしています。

サンパウロ新聞 福岡支局は「親不孝通り」エリアに位置する

当事者になってみないと、なかなか見えないことはあります。少年院やブラジルで過ごした自分だからこそ分かることを伝えていきたいですね。

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