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原書房「陸軍中野学校」より

消えゆく「陸軍中野学校」の跡と記憶 「結局は駒」と卒業生は語った

2019/07/08(月) 09:02 配信

オリジナル

21階建ての複合ビル「中野セントラルパークサウス」は、東京のJR中野駅を見下ろすように立っている。北隣の親水公園では家族連れが遊び、西側には私立大学のビル型キャンパスが並ぶ。タワーマンションや中野区役所庁舎の移転なども計画され、駅北口周辺は、変化が著しい。昔ながらの街並みの雰囲気が薄れゆくなか、戦時中、その一角に存在した「陸軍中野学校」の記憶もまた、消えかかっている。日本軍制史上唯一とされる秘密戦要員の養成機関。そこに所属し、戦後を生き抜いた96歳の思いとは――。(神戸新聞社/Yahoo!ニュース 特集編集部)

突然の面接 「長机の上に何があった?」

兵庫県明石市に住む井登慧(いと・さとし)さん(96)は、あの「面接」を今もよく覚えている。

1944(昭和19)年7月。騎兵部隊の将校を養成する陸軍騎兵学校(千葉県船橋市)の会議室に、即席の面接会場ができた。日本敗戦の1年ほど前のことである。米軍を相手に日本は守勢に回り、本土防衛の生命線とされたサイパン島もこの月に陥落。戦況は日に日に悪化していた。

21歳だった井登さんが会議室に入ると、部屋の真ん中に、背もたれのない丸いすがぽつんと置いてあった。促され、正面を向いて座る。長机越しに、面識のない4、5人の将校がいた。無表情のまま、視線を投げてくる。

「後ろを向け」

命令に従い、井登さんは体を180度回転させた。同校を間もなく卒業するという時に、上官に呼び出され、この不可思議な面接を受ける。何の目的なのか、将校は誰なのか。説明は一切なく、不安ばかりが募った。

「面接」の記憶をたどる井登慧さん(右)。左は騎兵部隊で訓練を積んでいた当時の写真

合図があり、井登さんが向き直ると、将校の一人が口を開いた。

「この長机の上に、何が置いてあったか」

思いもしない質問だった。見ると、雑然と置かれていた小物が、きれいに片付けられている。灰皿、万年筆、たばこ……。井登さんは懸命に記憶をたどり、五つほど挙げた。「よし、帰ってよろしい」。それで面接は終わった。

この年の9月、井登さんは旧満州(現・中国北東部)にいた所属部隊への復帰予定を覆され、静岡県の二俣にあった「東部33部隊」という聞き慣れない組織に配属となった。士官学校や工兵学校などで同じような“試験”を受けた見習士官が集められていた。その数、約230人だったという。

「正規軍の将校ではなく、秘密戦士になってもらう」

幹部からそう告げられたという井登さん。東部33部隊はカムフラージュのための通称で、正式名称は「陸軍中野学校二俣分校」。自分たちは分校の1期生だと、現地で初めて知る。陸軍内部でも一部しか存在を知らない組織。井登さんの「中野学校」はそうやって始まった。

戦時中に「死ぬな、生き延びろ」の教え

「謀略」「潜行」「破壊」――。

独特のカリキュラムによる3カ月の教育が始まった。

ある日の行軍中、川を渡り終えたところで教官が突然足を止めた。矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。「橋の長さは?」「川の水深は?」「どのくらいの爆薬があれば橋を壊せるか?」。井登さんは「私生活を含め、全てにおいて気が抜けなかった」と振り返る。

陸軍中野学校二俣分校の全景=「俣一戦史」(原書房)より

1週間ほど農家に下宿し、鍬(くわ)を担いで農作業を手伝ったこともある。変装して敵地に潜入する想定の訓練だった。

教官の助言も、また独特だったという。「芸者遊びをしたことがない者は役に立たないぞ」「軍隊要務の典範令ではなく、マルクスの資本論を読め」……。最も印象に残っているのは、「戦陣訓」の否定だった。

井登さんが言う。

「騎兵学校までは、『捕虜になるなら死ね。最後は突撃だ』とすり込まれてきたわけですね。それが、中野学校では『とにかく死ぬな。任務を重んじて生き延びろ』と。兵士一人一人の力は大きくて、たとえ捕虜になったとしても、敵にデマを流したり、情報を取って味方に伝えたりできると言うんです」

井登さんの言葉を動画でも紹介しよう。

二俣分校での日々を振り返る井登さん

将校としての心構えをたたき込まれてきた井登さんらは、戸惑い、憤慨した。20~30人が集まり、教官に直談判もした。「秘密戦がどうこう言われても難しくて分からない」「早く第一線に送ってほしい」。血気盛んな見習士官の訴えにも教官は全く動じず、「難しいと分かるだけでも優秀だ。ここでみっちり学べば、絶対によくなる」と語ったという。

この記憶が戦後、井登さんによみがえってきたのは、1974(昭和49)年のことだ。あのときの直訴に加わった人物に世界中の注目が集まったためだ。その名は「小野田寛郎」。

「最後の日本兵」も中野学校出

小野田さん(故人)はその年、フィリピンのルバング島で人前に現れ、“投降”した。軍刀を渡し、敬礼をする小柄な日本人兵士。「最後の日本兵」と形容された姿は、経済大国にのし上がった日本の人々を驚かせた。敗戦から30年近くもフィリピンのジャングルでゲリラ戦を続けていたからである。

軍刀を渡し、敬礼をする元陸軍少尉の小野田寛郎さん(中央)=1974年3月、フィリピン・ルバング島(共同通信提供)

和歌山県出身の小野田さんは旧制中学校を卒業後、商社勤務を経て陸軍に入り、井登さんと同じ中野学校二俣分校の1期生として3カ月間の特殊訓練を受けた。1944(昭和19)年12月、フィリピンに派遣され、ルパング島で米軍に抗戦。敗戦を迎えても「任務解除の命令がない」として、1974年までジャングルにとどまっていたのだ。

その間、小野田さんはレーダー施設を攻撃するなど抵抗を続けたという。

井登さんは振り返る。

「小野田の行為は『とにかく生き延びて、最後の1人になるまで戦い続けろ』という中野学校の教育そのものなんです。演習でも何でも、とにかくまじめに取り組む男でしたから、『あの小野田なら』と思いましたね」

陸軍中野学校二俣分校の出身者らの会合で記念写真に納まる井登慧さん(右)と小野田寛郎さん=2007年5月(井登さん提供)

小野田さんの帰国によって、戦後も秘匿されていた中野学校の存在にスポットが当たるようになった。「中野は語らず」と胸中に秘めていた出身者も、その実態を少しずつ明かすようになっていく。

“正史”が語る中野学校

「いつまでも秘密のベールに包み秘しておくことは、ともすれば世上一般の異常な興味と好奇心をそそり、誤った事実のもとにいろいろな憶測が行なわれ、無責任な流説が横行する原因にもなりました」

中野学校出身者らが編んだ「陸軍中野学校」の冒頭には、そう記されている。小野田さんの帰国から4年後の1978(昭和53)年。この“正史”は世に出た。2部構成で、9編70章、計900ページにも及ぶ大著だ。

小野田寛郎さんの帰国をきっかけに編まれた「陸軍中野学校」

それによると、陸軍中野学校の前身となる「防諜研究所」は、日中戦争開始翌年の1938(昭和13)年、東京・九段で発足した。欧米列強に遅れをとる情報戦に対応するためで、翌年には「後方勤務要員養成所」に改組。さらに1940(昭和15)年には東京・中野に移転し、その地名から「陸軍中野学校」と改称された。当初は少数精鋭で、外国語教育などカリキュラムも充実し、スパイ養成の側面も色濃かった。

1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると、連合国側との比較で物量の劣勢が明確になり、情報戦の重要度が下がっていく。そのため、中野学校の方針もゲリラ戦要員の育成へと転換したという。ゲリラ戦指揮官の短期集中教育に特化した二俣分校は、その象徴的な存在だった。

再開発が進み、中野学校の面影が消えた跡地周辺=東京都中野区

この本は市販されず、関係者のみに配布された。その“内輪感”も手伝ってか、出身者一人一人の実名や配属先などが詳細に記されている。一方、当人がかたくなに拒んだのか、わずかながら匿名の箇所がある。「離島残置工作員」の項目もその一つ。この工作員は、米軍の本土上陸に備え、島民によるゲリラ戦を指揮するために配置された。南西諸島や本土周辺の離島に潜入したのは11人。そのうち10人は実名だが、沖縄県久米島に配属された1人は「T少尉」と記されている。

兵庫県出身の故・竹川実さんである。竹川さんはどんな任務を背負い、戦後はどんな人生を送ったのだろうか。

虚仮の半生 「悔やまれます」

1945(昭和20)年1月ごろ、沖縄本島から西に約100キロ離れた久米島に、本土から男性がやってきた。すらりとした姿で「上原敏雄」と名乗り、国民学校の教壇に立つ。一方では、警防団(空襲などに対する住民の自衛組織)の幹部になり、地元に溶け込んでいたという。

久米島の住民調査によると、この「上原先生」が竹川さんだった。井登さんや小野田さんと同じ中野学校二俣分校の1期生。教員養成の「師範学校」卒業という経歴を生かし、偽名で子どもたちの教師となった一方、住民らの動向を探り、戦闘時の斬り込み計画の立案に関わっていた。

陸軍中野学校の“正史”。「離島残置工作員」の箇所では1人だけ実名を伏せてある

結局、久米島で大規模な戦闘はなかった。

島で敗戦を迎えた竹川さんは「上原敏雄」と名乗ったまま教員を続けた。小野田さんのように任務続行のためにとどまったのか、島への愛着や後ろめたさからだったのかは分からない。親しくなった女性と同居し、住民には島に骨をうずめる覚悟だと映った。

敗戦翌年の1946(昭和21)年3月、工作員だったことが米軍に発覚した。

竹川さんは、沖縄本島の収容施設に送られ、二度と久米島に戻らなかった。同年11月に本土へ帰った後、神戸で教員を務め、小学校の校長として定年を迎えている。家族によると、1991年に68歳で亡くなるまで、工作員の経験を明かすことはなかったという。

当時の心境をうかがわせるのは、師範学校卒業30年の記念冊子だ。多くの卒業生が、戦中・戦後を努めて前向きに振り返る手記を寄せるなか、竹川さんの書きぶりは異様とも映る。

「沖縄での敗戦や収容生活の記憶が強烈すぎて、その後、一体何をしてきたのだろうかと影うすく、何かに奪われてしまったような30年とさえ思われます」「この30年は虚仮(こけ)の半生だったと悔やまれます」

竹川実さんが戦争体験への思いをつづった記念冊子。文章の横に家族写真が添えてある

「虚仮」とは「真実でない」の意味だ。

竹川さんは神戸で教員として再出発した後、結婚し、2人の子どもにも恵まれた。その個人史を否定するほど、工作員の日々は心に深い傷を残したのだろうか。

長女(64)ら家族が「父の経歴」を正確に知ったのは、竹川さんの他界後である。久米島の住民による戦時調査によって、家族は「上原敏雄だった竹川実」の真実に接した。長女は父の心情を推し量り、取材にこう語った。

「父は、戦争に行きたくて行ったわけでも、工作員になりたくてなったわけでもなかったはずです。久米島だって、命令で派遣されただけ。それなのに、心の傷を一人で抱え続けて、最後まで打ち明けられずに亡くなったんですね」

96歳の井登さん「自分の意志で生き延びるなんて……」

防諜研究所、後方勤務要員養成所時代も含め「陸軍中野学校」は、敗戦までの8年間しか存在しなかった。戦後は既に70年以上。その痕跡は容易に手にできない。

中野の本校跡には、茂みに隠れた小さな石碑が残るだけだ。小野田さんは2014年に92歳で他界。出身者の多くは鬼籍に入り、体験を語る人もほぼいない。かつての記憶は社会全体から消えかかっている。

そうしたなか、井登さんは数少ない証言者である。いま、振り返ってみると、中野学校とは、どんな存在だったのか。井登さんは言う。

「現実とかけ離れた幻のようなものでした。二俣分校で学んでいた当時、死を美化し、生への執着を否定した正規軍に対し、(中野学校では)個々の能力を認めた。死ぬな、生き延びろという独特の教育方針が、合理的に思えたこともありました」

台湾の「高砂族」に遊撃戦を指導する井登さん(後列右から4人目)=1945年(井登さん提供)

中野学校を出た後、井登さんは日本が統治していた台湾に渡った。先住民族の「高砂族」に遊撃戦を指導し、米軍などの上陸に備えていたが、戦闘を経験することなく生き延びた。

学校の同期生には、フィリピンで斬り込み隊に加わったり、沖縄戦の特攻部隊「義烈空挺隊」に組み込まれたりし、そして戦死した者もいる。そうした行為もゲリラ戦の指揮官養成も、根本には市民も巻き込む「一億玉砕」に基づく発想があった。

井登さんはいま、こう言っている。

「秘密戦士も、任地や命令によって生死が分かれたわけで、結局は正規軍の兵士と同じ。一つの駒でしかなかったんです。戦争の大きな流れの中では、人間一人の力はちっぽけで、自分の意思で生き延びるなんてできませんでした」

中野学校跡地に立つ東京警察病院。植え込みの奥には、ひっそりと石碑がたたずんでいる=東京都中野区


神戸新聞
1898(明治31)年に創刊した兵庫県の地元紙。神戸、姫路本社のほか東京、大阪、東播(加古川)の3支社と阪神、明石など7総局、23支局を置き、兵庫県全域をきめ細かくカバーしている。

[記事]小川晶(姫路本社)
[写真]撮影:小川晶(姫路本社)、大山伸一郎(映像写真部)、三津山朋彦(同)
提供:井登慧、原書房(「陸軍中野学校」「俣一戦史」より)