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藤井ヨシカツ

瀬戸内海の「毒ガス島」はいま――加害の歴史語り継ぐ人々

2018/08/09(木) 07:15 配信

オリジナル

瀬戸内海に浮かぶ大久野島(広島県竹原市)は、「ウサギの島」として知られている。周囲約4キロの小島にウサギは約700羽。観光客も急増中で、2017年は40万人を超す人々が島にやってきた。しかし、ここに旧日本軍の巨大な毒ガス製造工場があったことは、ほとんど知られていない。同じ県にありながら世界に知られた「原爆禍の広島」と、多くの国民が知らない「毒ガス島の歴史」。かつての史実を懸命に伝えようとする大久野島の人々に密着した。(藤井ヨシカツ/Yahoo!ニュース 特集編集部)

「本気で聞いてくれる子、必ずいる」

「やっぱり、子供たちに話すのが楽しみですよ。目を見たらわかるんです。『本気で聞いてくれよる』という子がね、必ず何人かおります」

山内正之さん(73)はそう話す。地元の竹原市出身で、かつては高校の社会科教師。2004年に退職すると、「毒ガス島歴史研究所」のメンバーとして来島者を案内するフィールドワーク、講演会などの活動に本格的に参加するようになった。活動は全てボランティアで、フィールドワークはこれまでに1000回を超えたという。

山内正之さん。毒ガス島歴史研究所のメンバーが遺跡を案内する

山内さんは言う。

「自分にとってもやりがいになるし、継続していかにゃいかんと思いますよね。(熱心に聞いてくれた)その子らが、また何らかの形で伝えてくれるというか、影響力を持ってくれれば……」

周囲がわずか4キロほどの大久野島は、対岸に位置する竹原市の忠海港からフェリーで約15分の距離にある。出発すると、すぐに「間もなくウサギの島、大久野島です」という船内アナウンスが響く。

大久野島全景。島への玄関口は対岸の忠海港。毒ガスを製造していた時代は、最大で毎朝2000人近くが船で島に通っていたという

竹原市産業振興課によると2013年に年間12万5000人だった来島者は、2017年には40万7000人にまで増加した。最近では、外国からの観光客も多く、船内でもあちこちから英語や中国語、韓国語が聞こえてくる。

みんな、目当てはウサギだ。船を下りるとすぐにウサギが寄ってくるし、観光客はキャベツやニンジンを持ってウサギと戯れている。

ウサギと遊ぶ観光客

秘密を守るため、島は地図から消された

竹原市などによると、大久野島は1929年、全域が旧日本陸軍の管理下に置かれた。毒ガス製造を行うためだった。実際の製造は2年後。「東京第2陸軍造兵廠忠海製造所」が建設され、製造は敗戦の年の1945年まで続く。

大久野島での毒ガス製造は徹底的に秘密にされ、戦時中は機密保持のため、島の存在は地図から消された。そのため、この島は「地図から消された島」の異名も持つ。毒ガス製造の史実が広く社会に伝えられたのも、1980年代半ばだったという。

火薬庫跡。化学兵器などの置き場として使用されていた。壁はレンガ造りだが、屋根は爆発事故の際に爆風を上方に逃がすため簡素な造りだった

「大日本帝国陸地測量部」が1938年に発行した大久野島周辺地図。地図右上が島の場所だが、その周辺は白く切り抜かれている

「語り部」になった山内さんの自宅は、竹原市の本土側にある。自宅を訪ねると、妻の静代さん(70)とともに出迎えてくれた。静代さんも元教員で、大久野島の歴史を研究している。

山内さんの記憶によると、戦後すぐのころ、隣の家に防毒マスクが置いてあった。その家のおじいさんをはじめ、かつての工員たちから「島で毒ガスをつくっていた」という話を聞いて育ったという。

「隣の家に、自分とちょうど同じくらいの子供がおってね。防毒マスクをかぶって、よう遊びよった。ただ、毒ガスが戦争で使われて、大変な加害を出したという歴史については、全く自分の中になかったですね」

大久野島で使用されていた防毒マスク

山内さんが教員になってしばらく経ったころ、毒ガス島の歴史が明らかになり、学校でも郷土学習などの時間に教えるようになった。多くの生徒は小中学校で、原爆や空襲については学んでいる。しかし、加害の歴史については、ほとんど学んでいなかったという。

「(大久野島のことなどを教えると、高校生の)子供たちはすごい聞くんですよ。ほいでね、そういうことがあったんか、やっぱり戦争はそうなんか、って。ひいき目に見たら10人のうち6人は、戦争いうのはこういう側面があるんだと、知ってくれた気がしますね。ものの見方が変わるじゃないですか。今までは『原爆じゃ、空襲じゃ』だけで見てたのが、そうじゃないんだと。今度は逆の、加害の立場から見るからね。そういう反応を見ながら、やっぱり島の歴史は語っていかにゃいかんと思うようになりました」

手を振り上げて訴えるように話す山内さん。話はいつも熱を帯びる

旧日本軍の毒ガス製造問題は、1990年代になって大きく動く。日本も化学兵器禁止条約を批准し、旧日本軍の中国における「遺棄化学兵器」についても、廃棄処理に取り組んだ。

内閣府・遺棄化学兵器処理担当室のデータによると、旧日本軍の毒ガス兵器を中国国内で約5万6000発も発見、回収し(2017年4月現在)、このうち約4万6000発を廃棄した(同年6月現在)。こうした毒ガス兵器のどの程度が大久野島由来かは、はっきりしていない。しかし、日本本土での旧陸軍の毒ガス製造拠点は他になかった。

島のあちこちに、毒ガス製造器具の破片が今も散らばっている

大久野島で製造された毒ガスは、福岡県にあった陸軍の工場に運ばれ、砲弾や投下弾に装てんされた

「異様なにおい。鼻をつままないとおれん」

広島県三原市在住の藤本安馬さん(92)には、毒ガス製造の直接体験がある。声はかすれるようになったが、記憶は薄れていない。

「勉強しながらお金がもらえるから、島に行ってみないか、と。学校の先生から勧誘されたんです」

島にできていた陸軍の技能者養成所への入所は、15歳の春だった。1941年4月、「養成工の1年生」として、藤本さんは島へ渡る。アセチレンなどをつくる工程に関わっていたという。アセチレンは「ルイサイト」の原料であり、ルイサイトは時に人を死に至らしめる毒ガス兵器として利用されていた。

藤本安馬さん。「私が死んだら毒ガスの証言をする人がいない」

毒ガス製造に関わるようになったころの藤本さん。15歳。「島で何をつくっているかは秘密で、一切しゃべってはいけなかった」

「桟橋に着いた途端、異様なにおい……。酸やアルカリの、鼻をつままんとおれん。厳しいにおい。島にあるのは普通の化学工場じゃないというのは直感的に分かりましたね」

毒ガス問題に詳しい中央大学名誉教授・吉見義明氏の研究によると、藤本さんが島で働き始めた年、島の毒ガス生産量はピークだった。その量は年間で約1500トンに及んだという。

毒ガスの製造器具。薬品や熱に強い陶磁器が多く使用された

全く何も知らされず、島へ

三原市に住む岡田黎子(れいこ)さん(88)も毒ガス製造の体験者だ。70年以上も前のことにもかかわらず、しっかりした口調で取材に応じてくれた。島に初めて渡ったのは15歳のとき。今の時代に置き換えると、中学生だった1年弱、毒ガス原料の運搬や風船爆弾の製造をさせられたという。

「島については一切教えてもらわないで、『明日から大久野島へ行く』という感じでした。11月ごろです。その年の5月か6月には、2級上の子が大久野島に動員されていきました。1級上は違う所に動員され、今度は私たち……。次の日からは学校へ行かず、勉強はすっぽりやめて働かされました」

岡田黎子さん。寒い時期でも暖房のない板の間でずっと作業させられたという。「ドジなんで、何の仕事をさせられても怒られ通し。それでノイローゼになったんですよ」

当時の日本では、一定年齢以上になった子どもたちは、軍需工場などでの労働が義務付けられていた。

「毒ガスをつくってるなんて知りません。島に通い始めても、初めは何も分かりませんでした。毒ガス障害による慢性気管支炎になりました。島に行った人は全員、これにかかっていると思います。私、原爆投下後の広島にも(被爆者の救護で)行ってるでしょ? よくここまで生きてこられたと思います」

岡田さんは美術の教師だった。島での体験も描いた。この絵は毒ガスの原料を運搬している様子

竹原市が運営する「大久野島毒ガス資料館」は、1988年にできた。初代館長は故・村上初一さん。製造所の元工員で、養成工の1期生。毒ガス製造機械の修理や新しい機械の製作に携わっていたという。自著などによると、村上さんは当初、展示物の解説などや自分の体験だけを語っていたらしい。

ところが、1996年に中国の研究者から手紙をもらったことで少しずつ姿勢を変えていく。手紙には「中国には現在も日本軍の遺棄毒ガス兵器による後遺症に苦しむ人たちがいます」と記されていた。来館者に「被害の話ばかりなのか」などと言われたこともきっかけになった。

それ以降、村上さんは自身の体験だけでなく、中国での加害の歴史も語るようになったという。そして毒ガス資料館の展示にも加害に関する資料や写真が増やされ、現在まで引き継がれている。

大久野島毒ガス資料館。「戦争の加害の歴史も展示した全国でも珍しい資料館です」と山内さん

「語り部は単なる観光ガイドじゃない」

初代館長の遺志を引き継ぐかたちになった山内さんは、いま、何を考えながら活動を続けているのだろうか。

取材中、山内さんは「今後についてはいくつも不安があります」と口にした。資料館の運営は竹原市。「島の遺跡がどんなに重要か。それを行政の担当者に分かってもらうまで、何回も話し合います。やっと分かってくれたと思うたら、担当者が転勤していくんですよね。で、また新しい人が来る」

その時々の担当者によって運営方針が変わり、一時期、加害の展示が大幅に縮小したこともあるという。それでも、双方は折に触れて話し合い、議論を切らさなかった。

中国・山西省で毒ガスを使用するよう命令した旧日本軍の文書。島の資料館に展示されている。文書中の「あか弾ヲ使用スルコトヲ得」の「あか」とは、「赤1号」の通称で呼ばれた毒ガス、ジフェニールシアンアルシンのことで、くしゃみ、頭痛、吐き気などを引き起こす。大久野島で生産されていた毒ガスとしてはイペリットに次ぐ量だったという

山内さんは続ける。

「子供たちにフィールドワークをずっとやってきたというのを行政の現場担当者たちは知っているわけですよ。この間の私たちの活動がちょっとずつ行政の考え方にも影響を与え、そしてたくさんの人に毒ガスの歴史を見てもらう、知ってもらう。その力にはなっとると言えると思います」

語り部たちは、それぞれ家庭や仕事を抱えている。後継者の育成も大変だ。世代が変われば、さらに育成は難しくなる。

フィールドワークの様子。「平和をどう築くのか、この子供たちにどういう人生を歩んでいってほしいのか。そういうことを考えながらやっています」と山内さん

山内さんは言う。

「最近のウサギ人気で観光客が増えて、資料館の入場者も増えとるんです。そのことはうれしい。ただ、ほかに心配もあるんです」

——例えば、どんな心配でしょうか。

「(加害の歴史も盛り込んだ)展示の内容に関して(誰かに)攻撃されるんじゃないか、と。(心配は)ちょっとだけですよ。今は露骨なものはないですけど、逆に言えば、それだけ大久野島の歴史を知っている人が少ないんじゃないか、って」

青酸ガスを入れるための容器。通称「チビ」と呼ばれていた

学校単位の訪問をやめる例も出てきた。10年以上も来島していた岡山県の中学校も、昨年から島での学習をやめているという。竹原市によると、広島県内の学校も減った。

「観光客が増えることで船便の確保が難しくなってるから、平和学習に来る団体にもマイナスの影響が出てきとるんです。200人以上で来てた学校もだんだん来なくなって」

当時の様子を子どもたちに説明する山内さん

ただし、最大の問題は別のところにある、と山内さんは考えている。

「教員の平和学習への意識が低下していると感じます。大久野島で生徒たちに十分な平和学習をさせてやりたい。そういう教員はどんどん減っている。それが一番の問題点なんですよ」

「大事なのは実際に現場に行って、被害者に会っていろんな話を聞くこと。そうすると、それを(誰かに)しゃべるときも他人事ではなくなる。心の中で、毒ガス被害者が苦しんどるのがやっぱり浮かんでくるんですよね……そうじゃなけりゃ、単なる観光ガイドになってしまう」

大久野島は「ウサギの島」として有名だ

山内さんは言う。「歩くのは大事ですよ。特に暑いとき。歩きながらしゃべるのには、すごい体力いるから。まず元気でいないと」


藤井ヨシカツ(ふじい・よしかつ)
1979年、広島県生まれ。東京造形大学で映像を学んだ後、写真家として活動を始める。2015年から広島を拠点として、風化する戦争の記憶をテーマに作品を制作している。2018年、「毒ガス島」として知られる大久野島を題材にした手製写真集「Hiroshima Graph – Rabbits abandon their children」が、アメリカでThe Anamorphosis Prizeを受賞した。
http://www.yoshikatsufujii.com/

[写真]
撮影:藤井ヨシカツ
監修:リマインダーズ・プロジェクト 後藤勝