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武田信玄の死後、織田信長は正親町天皇に譲位を勧めていた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長の陰が薄い。実のところ、武田信玄の死後、織田信長は正親町天皇に譲位を勧めていたので、取り上げることにしよう。

 天正元年(1573)4月に武田信玄が病没したが、ドラマでの織田信長の動きはあまり見られない。むろん、信長が主人公ではないからだが、別にゆったりと楽しい生活を満喫していたわけではない。

 同年12月、信長は正親町天皇に譲位を勧めた。信長は何度も譲位を申し入れたというのだから、かなり熱心だったことがうかがえる。では、なぜ信長は正親町天皇に譲位を熱心に勧めたのだろうか。

 かつて、信長が正親町天皇に譲位を勧めたのは、自らが征夷大将軍になり、幕府を開くためだったといわれている。この説は、信長が足利義昭を傀儡とし、やがては追放する計画だったとの見解と相通じている。つまり、信長の野望を実現するためだったといえよう。

 しかし、この説には難がある。信長の申し入れを受けた正親町天皇は、大変喜んだというのである。正親町天皇は信長に書状を送り、「後土御門天皇以来、譲位は悲願だったが実現しなかった。今や朝家再興のときが来たと喜んでいる」と素直に感謝した。

 これは、いったいどういうことなのか。戦国時代になると、朝廷の財政難が恒常化し、譲位を行えないような状況が続いた。当時、天皇は早い段階で子に天皇位を譲り、上皇になるのが通例だった。逆に、現役の天皇のまま亡くなるのが異常だった。

 後土御門、後柏原、後奈良の三天皇は、譲位することなく病没した。それゆえ正親町天皇は、長年の悲願である譲位が叶うと思い、信長に感謝したのである。つまり、嫌だったのに、信長から強要されたものではないのである。

 その後、信長は配下の配下の林秀貞を通して、「今年はあまり日数もないので、来年の春に譲位を執り行うことにしましょう」と正親町天皇に伝えた。しかし、翌年の春を迎えても、譲位は行われなかったのである。

 信長が譲位を勧めながら、実行に移さなかった理由は不明である。強いていうならば、周辺が戦乱で慌ただしくなり、それどころではなくなったのかもしれない。正親町天皇は、さぞかしがっかりしたに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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