【九州三国志】日向に響く戦火、キリシタン王国の夢と不協和音!宗麟の遠征、島津との決戦の序章
かつて、豊後の大友氏と薩摩の島津氏は、互いに干渉しない同盟関係にありました。
大友氏が海上交易の安全を確保し、島津氏が領内安定を図るため、この関係は互恵的であったのです。
永正年間以来、日向の伊東氏との争いにおいても大友氏がたびたび島津氏に有利な仲裁を行った記録が残っています。
この平穏は、天正元年(1573年)の書状にも「御堅盟」の言葉で表され、両家が確かに同盟関係にあったことを物語っています。
しかし、天正5年(1577年)、この関係に変化が訪れました。
日向国の伊東義祐が島津氏に敗北し、領地を追われて大友氏へ庇護を求めたのです。
大友宗麟はこれを受け入れ、伊東氏を援護する形で島津氏の北進を阻むべく動き出しました。
翌天正6年(1578年)、宗麟は3万とも4万ともいわれる軍を動員し、耳川を越えて日向への侵攻を決定します。
伊東氏の旧臣たちも協力し、大友軍は日向北部で島津氏の勢力を駆逐し、耳川以北を制圧したのです。
このとき、大友軍はキリシタン信仰を背景に、土持領内の神社仏閣を徹底的に破壊しており、宗麟の「キリシタン王国」建設の意図があったともいわれるのです。
日向制圧に成功した大友軍に対し、島津義久は7000の兵を送り反撃を試みました。
島津軍は石ノ城を攻撃したものの、守備側の伊東家旧臣が粘り強く抵抗し、総大将の島津忠長が重傷を負い敗北に終わります。
これにより大友軍は耳川以北での優位を確保したものの、宗麟のキリシタン信仰が家臣団との不和を生み、内部には亀裂が生じ始めていました。
宗麟は同年8月、宣教師を伴い日向に入り本営を構えたものの、この侵攻は彼の宗教的野望と島津氏との本格的対決の幕開けを意味していたのです。
大友氏と島津氏、かつての盟友同士の関係は、天正年間を境に敵対へと転じ、九州全体を巻き込む戦乱の火種となっていきます。