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【富田林市】西板持町の旧道を歩いて見つけたのは馬場先道路新設記念碑。大正時代までなかった道です

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

公共交通派の私が西板持に行くときは、富田林駅からバスに乗る場合、もしくは川向から西板持方面に続くバス道(大阪府道201号甘南備川向線)を歩く場合と2通りがあります。

以前、バス道ではなくその裏道を歩いていると、表のバス道ができたことを記念したと思われる記念の石碑を見つけました。

民家が並ぶところにあった松の木の奥に、立派な石碑があるのが目に留まりました。

何の記念碑なのか気になったので確認しました。以下引用します。

板持馬場先道路新設竣工記念碑
昭和六年一月土井寅市發起シ地先地主耕作人協力奉仕シ同七年一月着手し、三月二十日之ヲ完成ス
昭和七年十月五日建之 成田軍平敬書

要約すると、1931(昭和6)年1月に板持馬場先道路を新設するために、土井寅市という人が発起人となって、地域の人みんなで協力奉仕することになり、翌昭和7年1月に工事を着手して3月20日に完成したことを記念した碑を、成田軍平さんの書で記し、昭和7年10月5日に建之したとあります。

「板持馬場先道路」「土井寅市」「成田軍平」で検索しても情報が出てきません。しかし、1922(大正11)年の古地図を見るとある特徴を見つけました。以下、確証している情報ではありませんが、可能性が高いと考えられるので紹介しましょう。

板持(西板持)の南側には佐備方面に行ける道はありますが、北側の川向方面にはあぜ道のようなものしか見えません。

秋祭り
秋祭り

つまり、画像のような川向から西板持方面に向かって現在の大阪府道のようなものは大正11年の段階では存在しなかったことになります。

秋祭り
秋祭り

昔はだんじりが川向から西板持に行くことも無かったのでは想像できます。

そして富田林市史の道路網の変化(外部リンク)に次の地図があります。こちらの地図は「富田林」(昭和7年修正測量)より作成との記載がありました。

この時点では町市道扱いですが、川向から西板持まで道がつながており、さらに測量修正した昭和7年という記載から、石碑に刻まれていた「板持馬場先道路」の可能性が考えられます。そして昭和22年頃の航空写真にもはっきり映っていました。

また、「馬場先」を調べると馬場で、馬を乗り止めるところと出てきます。西板持から北側にはかつて道がないところだったので、馬を止める場所「馬場先」に道をつなげようと地域の人が力を合わせて川向まで道をつないだと考えられますね。

今は舗装されているバスの裏道も、かつては田畑に囲まれたあぜ道で、当時から存在していたのは農業の用水路だけだったのかなと想像しました。

改めて記念碑を見るととても立派です。川向から石川を渡ると富田林の中心部に行きやすくなるので、当時の人たちの悲願として作られたような気がしました。

バスから見た西板持の風景
バスから見た西板持の風景

偶然に見つけた記念碑のおかげで西板持地域の意外な歴史を知るきっかけになりました。

板持馬場先道路新設竣工記念碑

住所:大阪府富田林市西板持町7丁目10

アクセス:近鉄富田林駅からバス 板持バス停から徒歩5分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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