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本当に豊臣秀吉は、宣教師フロイスが呆れ果てるほどの女好きだったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城豊国神社の豊臣秀吉公銅像と雪。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉が異彩を放っている。ところで、豊臣秀吉は、宣教師フロイスも呆れ果てるほどの女好きだったといわれているが、それは事実なのだろうか。

 昔から「英雄色を好む」というが、豊臣秀吉も例に漏れず女好きだったという。秀吉の女好きについては、フロイス『日本史』の次の記述が有名である。

 (秀吉は)齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。

 この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。

 この記述から明らかなように、秀吉の女好きは異常としか言いようがない。フロイスは秀吉が若い娘と不純な関係にあったと考え、肉欲に溺れた野蛮人のように思ったのだろう。では、秀吉は女性をどのように集めたのか、『日本史』の続きを確認しよう。

 彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。

 彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。

 秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていることを指摘し、「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と結んでいる。

 つまり、秀吉は自らの権力を笠に着て、女性やその親が嫌がろうが、無理やり連行していたことになろう。それは身分を問わなかったのだから、秀吉の女性好きは常軌を逸脱していたと言わざるを得ない。

 実は、秀吉の女性好きについては、フロイスの『日本史』にしか詳しく書かれていない。日本側の史料には、関係する記述がほとんどない。これが史実か否か、すぐに判断できないのも事実である。

 フロイスがここまで秀吉をこき下ろしたのは、秀吉がキリスト教の布教に理解がなかったからだと考えられる(伴天連追放令の発布)。もし、史料にバイアスがかかっているならば、秀吉の女好きについては、もう少し慎重に考える必要があろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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