関ヶ原合戦後に改易された前田利政は、なぜ西軍に味方したのだろうか?
今でも兄弟姉妹が仲違いすることは珍しくないが、それは戦国時代でも同じである。関ヶ原合戦において、前田利長は東軍に味方したが、弟の利政は西軍に与したので、戦後は改易された。なぜ、利政は西軍に与したのか、考えることにしよう。
慶長4年(1599)閏3月、五大老の前田利家が病没すると、子の利長が後任になった。その翌月、利長は徳川家康から謀叛の嫌疑を掛けられ、討伐されそうになった。利長は配下の横山長知を家康のもとに遣わし、弁明を行った。
その結果、利長は養嗣子の利常と珠姫(徳川秀忠の娘)を結婚させること、人質として母の芳春院を江戸に送ることで討伐を免れた。こうして利長は、家康に屈したのである。
慶長5年(1600)に家康が率いる東軍と、石田三成が率いる西軍が交戦状態に入ると、利長は東軍に与した。当初、利長の弟の利政も兄と同じ東軍に味方した。2人は関ヶ原に行軍する途中で、西軍に与した大聖寺城に籠る山口宗永の攻略に成功すると、いったん金沢城に帰城した。
その後、利長は金沢城を出発したが、利政は動かなかった。この時点で、利政は西軍の三成と通じていたというのである。なぜ、利政は東軍から離反し、西軍に与したのだろうか。
利政の妻子は三成に人質として送り込まれていたので、それが西軍に与した原因だったという説がある。当時、諸大名は大坂城下に妻子を住まわせていたので、あり得る話である。この場合は厳密に言えば、三成の人質というよりも、豊臣家の人質というべきなのかもしれない。
また、利政は妻子を救い出そうとしたが、それより先に利長が出陣したので、それが叶わなくなった。そこで、利政は病気と称して出陣しなかっただけで、決して西軍に与したわけではないという見解もある。
その一方で、利長・利政兄弟の不和が原因だったという説もある。先述のとおり利家の死後、利長は母の芳春院を人質として江戸に送るなどし、完全に家康に屈した。利政は弱気になった利長を許すことができず、あえて西軍に身を投じた。一方の利長は、利政が西軍に身を投じたことについて、ただちに家康に報告したという。
利政は積極的に西軍に与したわけではなく、東軍の軍勢と交戦はしていなかった。いずれにしても、戦後はその態度を咎められ、家康から改易という処分を科された。没収された知行は利長に与えられたので、前田家としては困らなかった。利政が西軍に与した理由は諸説あるものの、闇の中といわざるをえない。