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おちこぼれないと見えない世界 ~劣等感を例にとりつつ~

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

「不幸を受け入れよう。そしたら劣等感が消えるから」と、無理難題を主張する心理学者がいます。それを聞いた人の中には「それはわかっているが、どうしても不幸を受け入れられない。なぜなのだろう。私がおかしいのだろうか」と自分を責める人がいます。あるいは「不幸を受け入れることと劣等感の間には、果たして本当に関連があるのだろうか」と考え込む人がいます。

私の感覚だと、おちこぼれた経験のある人がそういう考え方をするように思います。

「わかっているけどできない」から不幸なのです

今の時代はわかりやすくかつ役に立つことが人気ですから、冒頭に挙げたような「不幸を受け入れたら劣等感が消える」というウソか誠か判然としない言い方が流行ります。不幸を受け入れることと劣等感が消えることを「因果関係」で結ぶと「聞こえがいい」すなわち「わかった気になる」から流行るだけのことです。

なぜなら、よく考えてみると誰にでも理解できることですが、不幸とは受け入れられないから不幸なわけで、ゆえに不幸を受け入れるというのは言語矛盾だからです。

例えば、東大を出て外資系のコンサル企業に入社することこそを「幸せ」と考えていた人が東大に落ち、本人が言うところの2流大学を出て2流企業に入った、そのことを「不幸=劣等感」と考えている場合、彼(女)は、その「不幸=劣等感」をやすやすと受け入れることはできるのでしょうか。

私は無理だと思います。一度「理想」から外れてしまった者は、その事実をかなり長く引きずるのが普通だからです。それが要するにおちこぼれ。

だからさあ・・・

そんなおちこぼれに対して、世間は例えば、「劣等感を抱くことを否定しないようにしよう」と言います。人間は機械ではないのだから、まあ、無理でしょう。ふと、否定してしまうでしょう。例えば、ひとり酔っぱらった深夜に。

あるいはまた、世間は「誰と比較して劣等感があるのかを考えてみよう」とも言います。これは誤りです。

劣等感というのは、直接的には、他者との比較によって生まれているように見えるものの、じつは「今のこの自分」と「理想の自分」をなぜか、つい心の中で比較してしまうことによって生じるものだからです。

つまり劣等感とは、心になぜか「理想の自分」が浮かんでくる限り、続くものです。

さらに世間は「完璧な人間はいないことを理解しよう」とも言います。まことに耳ざわりのいい言葉です。「だからさあ、理解してもなお、なぜか湧きおこってくる劣等感が問題なんだってば!」。

おちこぼれの哲学は役に立つのか?

おちこぼれの哲学は世間の言う「こうすれば、ああなる」をことごとく否定します。なぜなら、「こうしても、ああならない」ことを身をもって、イヤというほど知っているからです。

「不幸を受け入れたら劣等感が消える」と言われ、そう努力しても、そうできなかった。だから、おちこぼれているのです。頑張って勉強すればMARCHのどこかに入れる。しかし、実際にはどこにも入れなかった。おちこぼれた。頑張って就活すれば年収1000万円の企業に入れると信じ努力した。しかし実際には入れなかった。おちこぼれた。

では、おちこぼれの哲学は何に役立つのでしょうか。「こうすれば、ああなる」をことごとく否定するだけのものなのでしょうか。

有用か無用か以前の問題

大局的に見れば、おちこぼれの哲学は、本人が理不尽だと感じた事柄を取り上げて「なぜ」を問い続けるだけです。問い続ける? いや、問い続けざるを得ないと言ったほうがいいかもしれない。

頑張って勉強してMARCHのどこかの大学に入れるほどの学力が身についた(例えば模試で合格安全圏に入った)。しかし不合格だった。同じ学力の友だちは「A」に合格した。指定校推薦で「A」に進学した私より頭の悪いヤツもいる。「なぜ?」

友だちは名もない企業に就職したが、なぜか「そんな会社で」30歳にして年収1500万円ももらっており、しかも楽しそうに働いている。他方私は、世界的な有名企業に就職したものの年収600万円で、しかもブラックな上司に日々いじめられている。「なぜ?」

おちこぼれた者は「なぜ?」をいつまでも問い続けます。イヤでも心のどこかから「なぜ?」が湧きおこってくるからです。

つまり大局的に見れば、有用か無用か以前の問題。それがおちこぼれの哲学。

その結果、起こること

その結果、なにかいいことが起こるのか?

私はべつに何も起こらないように思います。「なぜ?」の答えが見つかったところで、それは「マイナスがプラスになった」のではなく、「マイナスからゼロ地点に戻った」だけだからです。「人並み」になるだけのこと。

しかもそれは、たまさか、答えが見つかり、「普通」に戻れた場合であり、多くは死ぬまで「なぜ?」を問い続けます。マイナスのままこの世を去ります。「あの大学に入れていたら私の人生は違ったものになっていただろう」「戦争に行っていなければ、私の人生は違ったものになっていただろう」。そう思いつつこの世を去る人だっている(いた)わけですから。

それがおちこぼれの哲学。

有用の無用、無用の有用

ただし、「なぜ?」を問い続けるしかない立場に立たされた者は「やさしさ」、すなわち、おちこぼれた他者の気持ちを理解できる心を、なぜか持つようになる(ことがある)――ここに、おちこぼれの哲学のメリットというか有用性があるように思います。

他人を蹴落とすことに成功し続けた者には決して見ることのできない世界を見ることができる。おちこぼれまいと自己を粉飾して生きている人には見ることのできない世界を見ることができる。これは明らかに、おちこぼれの哲学の有用性だと言えるでしょう。

しかし、そんなもん、世間一般から見たら無用も同然でしょう。

やさしさは金儲けに役立つのか? 冷徹非情に儲かるスキームを計算づくで組んだ方が儲かるのはみなさんご存知のとおり(サブスクの「解約ボタン」はわかりづらい「やさしくない」場所に設置した方が儲かるんでしょ?)。

あるいは、自論を押し通すのにやさしさは有用か? 「一応筋の通っている理屈」を大きな声で繰り返し唱えたほうが自論を押し通しやすいのも、みなさんよくご存知でしょう。

しかしそれでも、おちこぼれの哲学をやらざるを得ない人がこの世にはいます。そのような人はたいてい、ひっそりと暮らしています。おちこぼれたことのない人は、すぐそこにそんな人がいることに気づきません。

ひっそりと暮らす人々は、恋愛も親子関係も、子育てもすべて、「やさしさ」がないとうまく回っていかないという事実を、ひそかに、しかし確かに知っていると私には感じられます。

そのようなやさしさは有用なのか無用なのか? あるいは有用かつ無用なのか? 人それぞれ答えが違っていいと思います。

なぜなら、おちこぼれの哲学は感じるものだからです。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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