【その後の鎌倉殿の13人】動乱前夜の鎌倉!北条政子が三浦義村に言い放った一言
貞応3年(1224)7月5日、亡き北条義時の邸を訪れた伊賀光宗兄弟。邸には、義時の未亡人・伊賀の方が住んでいましたので、光宗らは当然、伊賀の方とも言葉をかわしたでしょう。彼・彼女らがどのような会話を交わしたのか、詳細は不明ですが、密談しているということは、義時邸の女中によって、北条泰時のもとに急報されました。
だが、泰時は、その情報を意に介さず。それから2週間ほど経った7月17日。鎌倉に異変が起こります。突如、鎌倉の近国から、武士たちが大勢集まってきて、門の内や家々に入っていったのです。(すわ、戦か)と誰もが緊張したことでしょう。
動乱前夜の有様を見て(何とかしなければ)と動いた女性がいました。北条政子です。政子は、その日、真夜中にもかかわらず、駿河局というお付きの女房を1人連れて、ある武将の邸を訪れたのでした。その武将とは、三浦義村。「尼将軍」というべき政子の急な来訪に、義村は恐縮したようです(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。
政子は、義村に言いました。
「義時が亡くなり、その子・泰時が鎌倉に下向したことによって、人々が群れ集まり、世の中は不穏になっています。北条政村や伊賀光宗が、盛んに貴方(義村)のもとを訪れ、何やら、密談しているという噂があります。これはどうしたことでしょう。そのようなことをする理由が分かりません。もしや、泰時を排するお積もりか!」と。
政子のこの言葉を聞いて、三浦義村は、何を想ったでしょうか。政子は畳みかけるように、更に言葉を続けるのですが、義村の反応や如何に。